利用者ブログ - シリーズ:平和を考える 


四季の中で夏は一番活動的な季節です。しかし同時に盛夏である8月は私たちにとっては忘れてはいけない出来事が過去にはありました。
時の流れとは残酷なもので、何人も留まることは許されません。苦しく辛い経験も時は容赦無く過去へと追い遣ってしまう。その痛みを覚えているのは当事者たちだけで、次の世の人たちは概念でしか理解することができません。
それだけに毎年、この月が始るごとに私たちは新たに決意し直さなければならないのです。戦争の惨禍を繰り返させないためには。

≪誰しもが大義を口にして始まるのが戦争である≫

戦争の善悪については語りません。その必要が無いからです。
この世には無数と言える数の人が存在し、それぞれが何らかのつながりを保ちながら日々を送っています。平等の理念は結果を伴わないことが多く、ほぼ全ての人がその矛盾に苦しめられています。そしてそのつながりに関して互いに利害関係を築いてしまい、いつしか相手の存在を嫌悪し合うことで自己の存在意義を確かめようとさえするようになる。それがさらに加速して、最後は一線を越えて互いが不幸な結末を招くこととなる。

私たち人類の歴史はまさにこの繰り返しでした。「相手が悪いのだ」。誰にでも言い分はありますから、それはそういう点を確かに含むのでしょう。それだけに一旦事が始まれば、「相手が降伏を申し出るまでは」、と戦火は止むことが無くなるのです。
「この戦いは我々が望んだものではない。大義のために止む無く始まったのである」。
国民に多大の犠牲を強いる結果を招いた、時の権利者が全て口にする常套句です。戦争の当事者にならないためには、この言葉を指導者たちにお互いに使わせてはいけない。それが高過ぎる代償を支払って得た唯一の教訓として活かし続けなければ決して戦争はこの世から無くなりはしないでしょう。

≪勝者も敗者も無くなるのがこれからの戦争≫

前の大戦は人類がこれまでに経験したことの無い被害を生みました。本来は人の世を幸福にするはずの科学が誤って使われ、それまでとは比較にならない負の結果をこの世に残したのです。特に原爆を始めとした核兵器は、現実に地球上の全ての生命を限りなく死滅させるだけの威力を持つに至りました。これは異状なことなのです。超大国とされる国々(全てが前の大戦の戦勝国で、国連の安全保障理事会の常任理事国)は素より、それらの国々ともはや同列だと自負する自称大国、さらには中小の途上国とされる国々までが開発に勤しみ、既に保有が確実視さえされている国が存在しているのが世界の恐ろしい現実なのです。

「恐怖の均衡が平和をもたらしている」。こういう意見は確かに存在します。結果が分かり切っているからこそ、広島と長崎の次となる核兵器の実戦での使用は今日までされたことはありませんでした。ただし使用寸前もしくは誤作動であわやという事態に陥ったことは何度も起こっているのです。偶発的な出来事がこれからも起こらない、との保証はどこにも無いのですから。
三発目の使用例が起こったら最後、世界中で保有されている全ての核兵器の使用へと拡大し、人類は滅びるでしょう。もはや勝者と敗者の区別をする必要は無くなるのです。死者のみが残されるのすからね。

≪私たちにできるのは≫

科学の発達は多くの人を幸せにしています。けれど再び狂気の時代が到来すると、文明社会を維持することが不可能になることは明白です。それだけに自分たちが生み出したものを怪物にさせて襲われてははいけない。
亡くなった人は決して戻りません。私たちにできるのは現実に起こったことを正しく認識し、それを保ち、次の世代へ確実に継承させこと。これだけが死者のみならず全ての生者のためにできることなのです。
言うは易し。これもそうなのですが。個人の力は限られているので、確かに大きな力となることに期待するのは無理があるでしょうか。でも権力を握る側も大きく見れば個人の集団に過ぎない、と言う点を持っているのです。

自分たちの時代には解決しなくても、次、それがだめならまた次で。一代や二代での解決を期待するのではなく、人類全体の責任としてこの問題を真剣に扱わなければならない時代が既に始まっています。そしてそれが我々にできることなのです。
8月には二つの原爆忌があります。原爆が戦争を終わりに導いた、というのは勝者の側の言い分です。前の戦争は日本が敗れました。そして犠牲者側の声は世界に十分に届いているとは言い難いのが現状です。

先にも言いましたが、次の戦争には敗者ですら存在しないんだ。このことを世界中の人が正しく認識して欲しいのです。
原爆のみならず、国籍や人種、信条を超越して、全ての争乱の犠牲者に哀悼の念を捧げます。そして二度と戦争の惨禍が繰り返さないように全ての人が誓い合いましょう。恒久の世界平和が達成できる日が来るために。