利用者ブログ - 令和のいろはカルタ



◆読み札:ルールをまもるしゅうかんをきっちりと


大人になるまでの期間は、それ以降の長い人生を送るための準備期間であるとも言えます。「社会の初心者だから…」ということで相当悪質な事柄でない限りは、社会は再挑戦の機会を与えてくれるのですね。
それを「自分の当然の権利だ!」と都合の良い解釈をして「世の中はほんと甘いよなあ」とほくそ笑む輩のなんと多いことか。けれど世の中は自分の思い通りになることが本当に少ない、という事実に気づくのが遅ければ遅いほど、後の人生は送り辛くなるのは間違いありません。
若い時にしっかりと善き習慣を身につけると一生の宝となるのです。「履歴書」の項目ではないとしても、他人様から十分評価していただける強みとなるのです。そうです。人は自分が思っている以上に他人をしっかりと見ているのですよ。

「これくらいなら…」というのは、転落への入り口だという自覚を早く持てる人になって欲しい。自分で自分をコントロールできる強い人間ほど幸福なのだということを常に実践できれば道を誤るということはなくなるでしょうからね。
当たり前過ぎますが「義務を果たしてからこその権利」を意識すべきです。

◆伝統的ないろはカルタ:るいをもってあつまる

今回は江戸の「瑠璃も玻璃も照らせば光る」ではなく、京・大坂共通の上方の句としました。カルタ遊びの読み札では「るりもはりも〜」となりますので、「はてな?」と思われた方も居られるのでは?。漢字では画数も多くて読みづらいので身近な単語ではありませんから。まあ、「瑠璃」も「玻璃」も仏典では「七宝」に挙げられているので、警句としては好適な単語ではあります(玻璃には現代でもガラスの意味も含まれる)。同じ音である「針」の方が身近な存在なので、「針を照らしてどうするの?」と思われるのもどうかと思ったのも上方の選出となりました(正直こじつけですけどね…)。

「類を以て集まる」は今回のテーマに沿ったものでもあることに言及しておきます。人間は自分の存在を他者と見比べて認識する、という側面が確かにあります。優秀な人間に対しては劣等感を抱き、逆ならば裏付けの無い優越感に浸るということになりがちに。
似た者同士が自然と集団を作るのは、それが一番楽なことだからでしょうね。共通する点が多いだけに話もはずむのでしょう。第一に安心できますし。集団を作る動物は現にいくらもいるので、それ自体は決して悪いことではありません。

しかし、一旦何らかの形でその絆が保てなくなれば悲惨なことになることも。なまじ仲が良かっただけにそれだけ悪意が増加するというケースは世の中では珍しくはないこと。そして自分の意志によらない「孤独」はより孤独感が増す結果になりかねないのです。
「栄光ある孤立」という言葉が政治の世界にはあります。個人単位でそれを当てはめるのは大袈裟ですけど、自分の意志で敢えて集団の一員とならないという選択を忘れないで欲しいのです。はっきりした意思表示をしなければ、他者に自身の決定権を握られるように発展する事態も起こり得ますからね。「孤独は嫌だ」。それは確かです。人は誰しも貧困も孤独も退屈も好きなわけはありませんから。孤立が結果として人生を悪い方向へ導く入口であるのも事実。しかしそれを避けるために自分の本意ではない行動をしたら…。
人生に迷う時は先の言葉を思い出す。そして勇気を出してより善き方向へとつなげてください。孤独は不幸かもしれませんが害悪とは限らないのですから。自分のルールを持つ。心強い味方ではありませんか。「栄光ある孤独」は「選択なき孤立」とは違うのです。

◆通話表:るすいの「る」(るすいの、る)


まず耳にしたことはないのではありませんか。意味としては「留守」と同じだそうですけど、歴史的用語では役職名にもあるそうですが、今日では使われることが無い単語となってますよね。。漢字では「留守居」と書きます。もし「る」が選び直されるのなら「留守番」に替えられるでしょうか。通話表でひらがなの表記となっているは、読みづらいのが理由だと思われます。
日本語では外来語を除くと伝統的に「ら行」の単語はとても少ないのは皆さんもご存知のはず。はい。しりとり遊びの必勝テクニックの重要な一つですよね。短くて適正に発音できて、表で扱われる他の言葉と区別するという目的では選出に苦労があったのかもしれません。
なお、法令での表記は「るすいのル」となります。このシリーズは通話に関する考察は含まないのでこういう点にはこだわらないようにしているのですが。先に触れたように漢字で書き記した方が、単語に対する認識は良かったかなと思います。この通話表には他にもなじみのない表記がありますが、それは後の回で紹介することにしましょう。


通話表の表記では漢字とひらがなが目立ちますが、カタカナも含まれます。今回の「る」はそうではありませんけれど。まあここまで書いてきたのは世の中の制約の多さの結果だということです。疑問も残りますが、一部では現在も使われているので代表して感謝していますよ。ありがとうございます。そしてごくろうさまでした。
提案をさせてください。21世紀も始まり、日本では平成から令和へと変わりました。良い機会ですのでわかりにくい「るすい」を別の言葉に交替してみませんか。
それはもちろん「ルール」です。短くて言いやすい善き言葉ですので。



 「令和では るすいは古い ルールだね」


◆「ん」尽くし:るんるん

悲しいけれど「る」と「ん」を結ぶ選ぶべき言葉は見つかりませんでした。想定内ではありましたがね。でも『国語辞典』に載せられている立派な単語であるので、思い切って採用させてもらいました。他の人に影響を与えない限りでは明るく楽しい言葉です。
句に特に意味はありませんが、これも感覚的に受け入れてください。こういう人も現実に見かけますが、意見するだけではなく温かく見守るのも社会を明るくする一つの努力だと思って受け入れましょう。

「るんるんは 無責任だぞ 頓珍漢」(るんるんはむせきにんだぞとんちんかん)

◆今日のひとこと:


 「裏をかく 姿勢が続けば 墓穴へ」

ルールは本来社会の多くの事柄を円滑に安全に確実に運営するのに必要不可欠です。これは運転免許を取るために教習所へ通った時に交通法規を覚えることが身近な例ですが。煩瑣なことではありますが、いざ法律問題に遭遇したら規則のありがたみを実感することもあり得ますので。
しかし本来は社会の善のためにあるべきルールを盾にとって悪事に勤しむ不心得者は後を絶ちません。狡猾である分だけ悪質だとも言えます。しかし法の平等の下では例外の扱いは認められません。まあ、逆を言えば法の精神を尊べば何ら問題は無く恥じる必要も無いのです。ルールの不備は、世の中の変化が激しくてその整備に追いつけないのが主な理由です。早い話、後追いということです。
規則の厄介な点は「範囲外には摘要されない」ことです。もちろん世の中は暗黙の了解や「常識」という便利な言葉もあり、いろんな点で他人様との折衝に使われてますよね。それが上手く働けばトラブルは発生しないのですけども…。

ともかく、罰が絡まなければ動じない人間が少なからず存在するということです。さらに規則の条文を金科玉条としてその不備を衝いて主義主張をまくし立てられたら迷惑この上ありません。まあ、「困ったちゃん」レベルならばまだ我慢できるのですけど。
先にも書いたように円滑に物事を進めるための規則です。それを都合の良い点だけを曲解して他者に強要するのは間違いです。その正論を教え諭したところでその相手が聞き入れることは無いでしょうが。
ただし、そういう主張をする姿勢をずっと続けると周囲はその人物を見放します。経済的なつながりがある場合は利害関係だけのつきあいとなります。その最後の関係が切れたらそれもすらも終わるのですね。
そうですよ。自分だけの都合を声高に主張するのは止めた方が良いということになるのです。一つだけの方法に頼って他の道を知らない人間の末路は悲惨ですからね。

最後の一言。世の中が悪くなった最大の原因。それは「大人がだらしなくなった」からです。無条件に「昔は良かった」という話ではありませんが。核家族化が進んだ今日では祖父母不在ということは珍しくありません。肝心の子育ての両親も多忙で、子どもに大切な人格形成の教育が疎かになっているのは誰しもが思うことでしょう。子どもは親を見て育つ。家庭は一番小さな単位の社会なのです。それを教えてくれる人が周囲に居なかったなら。心が育ち切っていない子どもたちは戸惑うことでしょう。
そうです。手本となる大人が居ないということ。まあ、今の大人たちも同じ経験を積んだ結果が現在ですので、順送りということもありますが。そういう点も踏まえてもより善き方向を目指すことは間違いではないのです。

正しいことが報われないのは悲しい現実。さりとて悪事に向かうのは言語道断。悪事に手を染めて利益を得たところでそれは一時的なものに過ぎません。最後は自分に帰ってくるのです。立派な大人にはなかなかなれそうにはなくても自分を見失わないように心がけるようにしましょう。人生はそれぞれの人のためにありますから。


最後の一言。世の中が悪くなった最大の原因。それは「大人がだらしなくなった」からです。無条件に「昔は良かった」という話ではありませんが。核家族化が進んだ今日では祖父母不在ということは珍しくありません。肝心の子育ての両親も多忙で、子どもに大切な人格形成の教育が疎かになっているのは誰しもが思うことでしょう。子どもは親を見て育つ。家庭は一番小さな単位の社会なのです。それを教えてくれる人が周囲に居なかったなら。心が育ち切っていない子どもたちは戸惑うことでしょう。
そうです。手本となる大人が居ないということ。まあ、今の大人たちも同じ経験を積んだ結果が現在ですので、順送りということもありますが。そういう点も踏まえてもより善き方向を目指すことは間違いではないのです。

正しいことが報われないのは悲しい現実。さりとて悪事に向かうのは言語道断。悪事に手を染めて利益を得たところでそれは一時的なものに過ぎません。最後は自分に帰ってくるのです。立派な大人にはなかなかなれそうにはなくても自分を見失わないように心がけるようにしましょう。人生はそれぞれの人のためにありますから。