利用者ブログ - 10.21シリーズ:神戸と兵庫のご当地ソングたち

兵庫県のご当地ソングについて書き記すことを目的としてこの一連のシリーズは始まりました。おかげさまで思いつくまま幾つかの作品を紹介することができました。けれど…。次に紹介すべき曲については。なかなかリストに挙げるべき曲が「見つからないなあ」というのが正直な思いです。
ご当地ソングの聖地はなんといっても九州の長崎ですよね。私たちの神戸と同じく、山に彩られた港町で歴史を積み重ねた異国情緒あふれる土地柄で知られています。その次は、豊かな物産と大自然(それも日本の他の土地とは比べられないだけの魅力と規模を誇る)が誇りである北海道。力強い民謡だけでも相当な数となり、詳しく掘り下げれば分厚い書籍を作れるくらいはあるでしょうか。

さらに日本の中心である大東京。文化の発信地でもあり、山手線(やまのてせん)の内側だけに限定しても相当数の名所が散在し、リスト化するだけでも相応の労苦を要するでしょう。その他の土地についても書き切れないほどに見つかるはずです。
意気込んで書き始めてはみたものの、次の記事にふさわしいだけの曲は…。ご当地ソングで調べるとまだまだ兵庫県のものをみつかりはするのですが、乏しい語彙力で上手くまとめられるだけの自信につながる曲はもう残されていないような…。困りました。はてさて、どうしましょうかねぇ。

人間の真価は苦境の下に在る時にこそ発揮されるべきもの。そうだ!。それなら、神戸の地名に因んだ曲まで範囲を広げて少し解釈を加えてみるのも面白そう。これは第一弾の『港が見える丘』でも言えるのですが、曲の語句に正直にこだわりだけでなく、イメージとしてのご当地の方が大きいのでは。という考え方もできそうです。
ですので、神戸のご当地ソングではなくても同じ地名が含まれる曲を紹介してみようと思いました。もちろん、それだけでは押しつけがましい点がありますので、ご当地としての歌詞をオリジナルに付してみることにしました。
もちろん関係諸氏の方々の権利について侵害する意図が一切無いことを言及しておきます。こんな風な歌詞で表現してみたいな、くらいの趣旨ですので。広い心で楽しんでいただけたら幸いです。


≪札幌・大阪・長崎を謳い上げた名曲『中の島ブルース』≫

曲がヒットするにはそれだけの理由があるのでしょう。北の最大の都市である札幌には「中の島」という地区があります。曲のイメージとしては同市の最大の繁華街である「すすきの」の方がふさわしいかも。けれども繁華街の喧騒よりは、少し離れてこぢんまりとした周辺の方が歌詞に似合っているとも言えるでしょう。
商都である大阪(明治以前は大坂)は淀川水系の河川を水路をとして備し、「水都」として「天下の台所」を支えてきました。現在の市役所が所在する一帯が中之島。微妙に表記が異なる点が歌の文句としてはかえってポイントとなっているような、そうでもないような…。ご当地ソングは何度も書いていますがイメージが大切なので、「そこはまあそういうことで…」というのが無難なのでしょう。それはまあともかく、こちらの一番のウリは「中之島公会堂」(大阪市中央公会堂)なのです。明治から大正にかけて株の売買で財を成した商人の寄付で建てられた近現代の日本を代表する洋風建築として知られ、近年には国の重要文化財に指定されるほどの名建築です。
赤レンガの色が美しく、堂島川の水面に映える絶景として親しまれているのです。大阪には「キタ」と「ミナミ」という二大歓楽街があって、中之島はキタには近いのですが、基本的にはメインストリートである御堂筋に面するオフィス街で、こちらも喧噪とは距離を置いた落ち着いた街並みですね。男女の情愛を謳い上げるムード音楽の背景にはもってこいの情景でしょう。


長崎については別に8月9日の「原爆忌」に関するものも記していますので、そちらもご覧ください。この西を代表する港町もこの曲では水の風景に因んだ場所が取り上げられています。ただし正しくは「なかのしま」ではなくて「中島川」(なかしまがわ)となっています。川幅は狭くて、起伏に富んだ長崎の街並みを水面に反映させるには力が足りないような…。ただ、この細い川には別の魅力があるのです。それは川には付き物である橋なのですが、実に多くの個性的なアーチ橋が並んでいて互いを見比べる絶景となっているのです。特に「眼鏡橋」は名高く、長崎を代表する風景の真っ先に連想される方も多いことでしょうね。


長崎は歴史も長く、物産も豊かでした。当然人が自然と集まる要素が多くありました。人が集まれば遊びの場としての機能も求められますよね。幕末に活躍した若き英傑たちが集った界隈も在り、彼らのたぎる血潮が求めた遊郭も、歌の文句で知られて有名になりました。基本的に長崎の街の中心地はまとまっていて、中島川の流れからも盛り場へ通うには不自由のない距離となっています。ここも直接的に盛り場には属しない距離の良さが感じられる所なのですね。
作詞された方の選択のセンスの良さを感じずにはいられないくらいです。



複数の都市に共通する地名で一つの歌にまとめる。表記にこだわるのなら、こじつけ感も否めないものの情感あふれる場所を的確に短く表現しているのですからね。九州では人名も地名も濁音としない例がけっこう多いので、「なかじま」という一般的な発音ならばもしかしたら「長崎は選ばれなかったかもしれないなあ」と、思ったりもするのも楽しい思索の方法なので広まって欲しいと思ってもいます。中島でいいのなら、実際に非常に多くの場所に見られる地名なのですから。


≪日本は「中島」だらけだった≫

函館にも「中島町」があり、こちらは明治初期の「箱館戦争」で活躍して家族と共に戦死した榎本軍の幹部に因んだ地名となっています。ほぼ同じ頃に元新選組の猛将も戦死しているので、明確な最期の地が定まっていない剣士がこの地のどこかで静かに眠っているかもしれないと考えると、函館も選ばれていたならば、がらりと変わった歌になったことでしょう。
横浜にもあります。ただ、こちらはネタになりそうな事柄が見つからないので、今回は省略です。
この他にも本当にたくさんたくさんあるのですが…。細かい地名にまで言及したなら、どの都道府県にも一か所はあるかもしれませんね。ありふれた、と言えば語弊があるのですが、ほんの少しの違いで歌になるかならないか、というのも面白いことではあるのですね。こういう言葉遊びもたのしいことです。

≪神戸にも中之島があった!≫


遠い遠い回り道でしたが、この神戸にも中之島は実はあるのです。これでご当地ソングのネタが見つかった…とは簡単にはできなかったのはここまで書く途中で気づかれた方もおられるのは?

当地ソングは地元の方の地域愛はもちろんですが、歌を通じての観光を、という目論見も含まれているのです。歌詞の内容の濃さはそれこそ千差万別で、地名がただタグのように散りばめている、というのも結構目にしますよね。まあ、歌謡曲が全盛だった時代のEP盤(45回転)の一曲当たりの演奏時間は長くても4分代程度だったので、詞で人生の機微を味わう大人の世界では、言葉が多過ぎるても敬遠されるという事情もあったのでしょうね。人間とというものは保守的な生き物で、知らず知らずのうちに繰り返す作業を受け入れているのです。歌詞にも似た語句が並び、それでいてきりりと引き締める語句が見事に活かされて、限られた時間を精一杯愉しめる見事な演出が両方のプロ、最終的にそこへ歌い手の絶妙な歌唱力(アイドルの多くは除いて)が加わって世に送り出されていました。
差し出がましいようですが、「なかのしま」が紡いだ縁だとして、下手ながらも神戸版を自作してみることにしましょう。


暗い水面へ 灯(ひ)が映る〜イメージはかつてのメリケン波止場です〜
別離(わかれ)波止場に 似合う彩(いろ)〜現在は廃止されましたが瀬戸内海の各都市に向けての各航路があったのです〜
棄てて忘れた あの愛を〜演歌の真髄は男女の情愛で、その最たるものかたちですよね〜
あなたと二人 想う街〜謳う、もしくは綴るでも善いかもしれませんね〜

本当は下手な解説は不要なのですが、表記の都合上、一気に掲載できない事情がありますもので、ご了承ください。最後に「神戸」を入れ直していただけたら完成です。
神戸の中之島は海には面してはいるものの、情景としては「港町としてはちょっと…」というのが正直な感想です。そういう細かいことは抜きにして、言葉遊びの面白さが少しは伝わったでしょうか?。もしそうでなけば、筆力の未熟さということで勘弁してくださいね。



≪札幌の歌としての『中の島ブルース』≫


ここからはオリジナルとなった歌の話となります。
音楽で志を立てたい。これは立派なことではあります。しかし、好きな道だけで生活の糧を得るのは本当に厳しいこと。これは誰しもが体験することです。オリジナル版が生まれたのは1973年(昭和四八)のことでした。北海道のとある炭鉱仲間が組んだバンドの自主制作でした。戦後の荒れ果てた国土の復興に炭鉱が果たした功績は本当に大きく、人も町も企業も大いに潤った時期があったのです。しかし徐々に石油に役割が移るにつれて、日本国内の石炭産業は斜陽化して行ったのは周知のことですよね。それに加えて石油ショックが同年に起こり、日本は低迷の時代への袋小路に陥ることになりました。娯楽は景気によって支えられている面がありますので、経済の冷え込みは直接影響しました。バンドは地元を離れて札幌で活動していて、クラブなどでの活動が評価されて人気を博するようになりました。このオリジナル曲はこういう経緯で作られたのです。当初は札幌の中の島が限定でした。

その2年後の75年(五十)には一つの転換期を迎えることに。札幌限定だったこの曲に大阪と長崎が加わって、別の人気グループとの競作として曲が全面的に改められて発売されることになったのです。
穂作ということも加わって作詞者も変わり、元の曲からの関連性は少なくとも詞に関しては非常に薄くなりました。ただ一部の語句のには形を変えてそれが活かされ、全く違う街を扱った2番と3番にうまく組み込まれたのはさすがでした。
ここで改めて触れるまで札幌のことを多く扱わなかったのは、こういう経緯を説明するためでした。ローカル限定の、本当の意味でのご当地ソングが、思惑が入り混じっての複数の土地のご当地ソングへと発展した。進化とも言えるでしょうか。
二つのグループの競争は全国的に知られている方に利があり、彼らの久し振りのヒット曲ということで結果は出ました。
私たちファンにとっては、勝敗ということは気にはなるのですが両者はとても実力があり、そういうこともこだわらずにそれぞれを愉しむことで答えを出すのが一番このましいことではないでしょうか。音楽は耳で聴く以上に心で育てるものですから。


≪ムード音楽はこれからも消えない≫


大人の世界を描いたムード音楽が寂れてどれくらいになるでしょうか。そして日本人独特の情念の世界を彩った演歌も。
これには「大人の社交場」としてのクラブや酒場が衰退したことも大きな要因になっているのは間違いないでしょう。しかしそれでも故人を含めて非常に多くの才能ある人々が心血を注いで築き上げた歌の文化が消えて良いはずはないのです。これからも決して消えっることなく、必ず復権します!。そしてそれを信じて一緒に待ちましょう。私たちの務めとしてね。甘美なメロデイ。短く的確に人の頃を掴む言の葉。それを時代に合わせて世に送り出す仕掛け人たちの辣腕。全てを加味したもの。それが音楽の文化なのです。



簡単に書くことが今回もできませんでした。でも書きたいことが見つかることも書き手としての冥利には尽きるので嬉しいことではあります。これを励みに神戸、そして兵庫にとどまらずに思いつくまま、日本各地のご当地ソングも紹介してゆきたいので、これからもよろしくお願いします。ではまた、次の機会で。