利用者ブログ - 今日は何の日

軍艦のプラモデル箱(利用者による画像コラージュ)

軍艦のプラモデル箱(利用者による画像コラージュ)

今日、12月07日のお話は豪華二本立てとなります。残念なことにお二方とも命日ですが、大きなお仕事をされました。
お一人目は戦前からの大御所です。

【対象は全方位 異能の人 小松崎茂】

ネット社会の今日においては、「紙の文化」に対する思いは薄くなった、ということになるでしょうか。もちろん、画像検索をすれば容易に概要を知ることはできます。本当に楽な、いい時代になりましたね。でも、書籍の発売日に合わせて書店を訪れ、それが人気作品であれば売り切れという期待外れの憂き目をに合いながらも、近隣の書店を虱潰しにして、やっと手に入れる、という苦労も善き思い出とする…。
そういう時代に小松崎茂(こまつざき・しげる)は一世を風靡した、人気のイラストレーターとして活動していました。そのデビューは画家としては割合早く、スタートは新聞連載の小説の挿絵画家からでした。当初は純粋な日本画家志望であり、確かな画力を持っていましたが、それだけでは生業とはならず、後にその能力を十分に発揮した速写力を買われてのことだったようです。

当時は新聞の力はとても大きく、連載小説は大きな話題となって社会で受け入れられていたのですが、的確な場面描写を必要とする挿絵も重要な要素でした。事実、資料が思うように手に入れられない時代に絵を志した人の多くは、日日(にちにち)届く新聞の紙面の挿絵を手本として自己の技量を磨いていたのですから。このように多くの人にとって娯楽と教養の源となる、新聞連載小説の本文と同様に親しまれたのです。

小松崎茂はそれだけに止まらず、生来の好奇心好き、特に精緻なメカニズムには目がなく、見た目だけの表面を描き移すというありきたりな普通の画家とは違い、構造図にまで筆力が及ぶという、極めて迫力を放つ正確な「機械図」とも呼ぶべきデザインや図解、絵画を描くことができたのです。これを当時の軍部が高く評価し、『機械化』という軍事雑誌で自ら描いた絵画等に止まらず、自己を数人の架空の筆者に見立て、座談会なる記事を載せたのも、その能力が故であったのでした。軍部が許可する範囲ではあったにせよ、正確な軍事情報と機能的な知識、それに豊かな空想力が無ければとても務まりはしなかったのですから。

こういう自分の能力をフルに発揮できる絶好な場を得はしましたが、時代は運命の日米開戦へ向かい、世相は軍事色一色へ。軍部が出す国策雑誌であったため、当時でも豪華な内容でしたが、退勢になるに従い頁数、色数、図解なども減らされてゆき、やがて黒一色という粗末な内容となりました。これは新聞でも同様でしたが、『機械化』は敗戦を待たずに廃刊となりました。もはや国威や士気の高揚どころではなくなったのでしょう。日本の無条件降伏は茂にとっても心の傷を残してしまいました。
善かれと思って振るった絵筆が、軍国主義の片棒を結果として担いでしまった…。茂は機能美として、日本の護りとしての武力は好きでしたが、戦争そのものについては嫌悪していました。これは現在の、ミリオタでも「実際の戦争とは全く別」と認識している人の方が多い(例外も有るでしょうけど)のと共通しているでしょうね。多くの人は普通ならここで筆を折ったでしょう。

しかし時代はまだ小松崎茂を必要としていました。日本の戦後はあらゆる点で無い無い尽くしでした。ほとんどの人は胃袋の空腹を抱えていたのはもちろんですが、それ以上に飢えていたのは娯楽だったのです。それまでの秩序と価値観が崩壊してこれから訪れる新しい時代を、希望だけで迎えた訳では当然ありませんでした。その恐怖を例え一時でもいいから考えないようにしたい。手っ取り早い方法の一つとして、焼け残った印刷設備を何とか形にして、質の悪い紙とインクをどうにか手に入れ、目立つようにどぎついデザインとケバケバしい色調で安価な印刷物が出されるようになりました。いわゆる「赤本」ですね。これらのほとんどは正式な書籍ではなく玩具のような扱いで焼け跡の即席の市場などで並べられました。
子供向けの「カストリ雑誌」とも言えるでしょうか。この赤本の描き手の中には後に有名になった人もいました。手塚治虫(てづか・おさむ)もその一人です。茂は戦後の本格的な再スタートの場をこういう境遇の出版界から始めたのです。
仕事の依頼は何でも受け、正確でその上非常に納期が短い点を便利がられて、一躍売れっ子作家(職人)となったのです。

そして時代のニーズは「絵物語」へと移りました。内容は小説と絵画が折半したような形式であり、非常に多様であって一口では語れないのですが、ストリー漫画で成功した手塚もこういう経験を経て大成する道を築いたのは間違いありませんね。未だGHQの占領状態が続く中では戦争物や歴史物の仇討ちは御法度茂でしたので、西部劇や科学物(元祖SF)を茂は好んで題材とし、世の子供達はこれらを歓喜して受け入れました。映画と同じく敗戦国の惨めな焼け跡も、豊かな想像力を駆使すれば西部の大平原となり、進駐軍の車両や航空機もSFに登場する未来の乗り物のように感じたのでは。
時間の経過は体と心の傷を徐々に癒し始め、国際状況の変化により日本の戦後の復興も進み始めて、主権の回復へ続きました。封印されていた過去の「恥部」とされた軍事も時代劇もそえにより解禁され、戦後の娯楽の列に加わりました。
本格的な少年雑誌も次々に発刊され、描き手が常に不足するとそれらの実に多くに茂の作品が掲載されました。どの時代でも男子は勝敗にこだわります。それと一定の時間の経過は、急激な戦後教育のひずみが生み出したのか、自分達の存在価値を求めるのか、身近な歴史的な出来事に興味がそそられるのか、先程の戦争の善悪の判断を超えた、空前の軍事ブームが起こったのです。まさに小松崎茂の時代でした。

これより後に有力な漫画作家達にも多くの影響を与え、カラーでの美しい、かつての日本の誇りだった軍艦や航空機に本当にたくさんの人が心を奪われたのです。少年雑誌にも当然嗜好の変化は有って、茂は新しい仕事にも挑戦しました。国産のプラモデルが販売されるようになると、戦車を中心に箱絵(ボックスアート)の仕事を引き受け、豊富な軍事と歴史知識に裏付けられた迫力あるその絵につられて多くの少年が貯えていた小遣いでそれらのプラモデルを購ったのでした。
その後も仕事の依頼に応じる姿勢は変わることはなく、ポスターやカレンダーやパズルや様々な小物に至るまで、数えきれないくらいのイラストを描き続けました。作品の中では特に有名なのは戦艦「大和」と一連の「サンダーバード」のメカ群が挙げられます。中でも本人が申されたように「数えきれないくらい『大和』を描いた」ということですので、それ専門の画集が出されたら相当な厚みとなるでしょう。

しかし悲劇にも見舞われたことも有ります。戦時中は空襲で貴重な資料や戦前の作品の多くが焼失し、晩年の少し前には自宅を失火で失い、またしても同じ災難に見舞われました。しかし常日頃から物事に拘らず、身辺が仕事の乱雑の中で汚れ放題でも気にならないという大らかな小松崎氏は特に動ずることなく、相当な高齢の身でありながら新しく仕事をする気に充ちていた、というのですから驚きですよね。小松崎茂は新しい世紀を見届け、2001年(平成十三)に86年の人生を完うしました。

大人気だったSF作品の描写も現代の視点では古臭さを正直感じることも有るのですが、ずっと時代を先取りしていた慧眼の確かさに脅威を感じます。
小松崎作品はイラストが後年中心ですから、没後20年にならんとした現在でも比較的広範囲であり、さまざまな商品が割合簡単に買うことができます。けれども、愛情を以て一筆ずつ丁寧でりながらそれでいて非常に手早く仕上げた、あの魅力ある軍艦や航空機や戦車、自身が創造した近未来の乗り物、快男児達、意外に知られていない歴史絵巻のような日本武者など、のほとんどがオリジナルの形では見られないのが残念でたまらないのです。

見方を変えれば、映画の俳優のようなものだ、と考えれば少しは気が晴れるようにもなるのですが、本当に惜しい。小松崎の事績について全く知らない人の方が実は多いでしょう。そんな人達でも、商用の二次使用ではありながらも本家以上の存在感を誇る商品達については一度くらいは目にした経験が有るのではないでしょうか。こういう意味で、小松崎茂は永遠の生命を既に得た、と言えるはずなのです。

  • フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 「小松崎茂」.https://ja.wikipedia.org/wiki/小松崎茂 (参照 2020-12-04)
  • 同上. 「絵物語」.https://ja.wikipedia.org/wiki/絵物語 (参照 2020-12-04)