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映画『力道山の鉄腕巨人』より

映画『力道山の鉄腕巨人』より

【自分の「影」との闘い 力道山とは】

テレビが生んだスーパースターはかなりの数になります。テレビは日本の高度経済成長期の象徴そのものの性格を有していますので、その人はまさに時代を表わす人物そのものでした。彼の名は力道山(りきどうざん)。大相撲で将来の横綱を期待されていましたが、関脇の地位で突然の廃業をし、日本人にはなじみの薄かったプロレスリングの世界へ身を投じました。何らの保障がなされない状態で単身アメリカへ渡った時は、当地では全くの無名でした。しかし武者修行を終えて日本へ戻って来た際には、一躍成功者として迎えられたのです。戦争終結からまだ数年。敵だった日本人に対する憎悪は未だ色濃く残り、有色人種に対する差別と偏見は半ば公然として行われていた時代です。

力道山の苦労は簡単に表現できるレベルではなかったことは容易に想像できますよね。格闘技の基本は暴力である。…力道山自身が語られた言葉ではありませんが、その暴力を集束し昇華させたのがスポーツとしての格闘技だとしたら、その人間の生い立ちよりもパーソナリティー、つまりはその持っている「強さ」こそが、娯楽として待ち受けている人間達の求める本質なのは言うまでもないでしょう。

そうですよね、まずは強い、ということなのです。強ければそれがかつての敵だったなんて事は関係無いんだ。口で言うほど簡単なことではありませんが、確かに力道山はこれを身を以て知り、新しいヒーローとなるべきヒントを得ました。
「これからはテレビだ!」。海外で実際に暮らしてみると、焼け跡の臭いが残るような惨めな日本と戦勝国の真の豊かさの差異を知ることで新しいビジネスの可能性をそこここで感じたのでしょう。そしてこの嗅覚は確かに時代の流れを嗅ぎ取りました。当時テレビは相当に高価だったので、人が集まろうである場所に設置され、未来を感じさせる小さな函(はこ)は大衆に対する絶好の宣伝の場となるべき期待が込められたのです。
その目論見は見事に当たり、人気の番組の時にはそれを目当てに黒山の人だかりが押し寄せ、テレビ時代は着実に訪れました。現在のサッカーの国際試合等で大型の映像装置を使用するパブリックビューイングを想起していただければご理解いただけるでしょうよね。映像もモノクロですので、距離が有れば画像としての認識はどうだったのかな、と思いたくなりますが、周囲の人と歓声を上げることの方が目的だったのでは、という気もしてきました。外国人がそうであったように、あの頃の日本人も敵愾心を抱き、それが大きなコンプレックスでもあったのですからね。

憎っくきガイジンをぶちのめしてくれた!

単純過ぎますけど、ようやく腹ペコ生活からの別れが見通せる時代には、必要だったのかも。自信を喪っていた日本人にとって、黒タイツが似合うヒーローは熱狂を以て受け入れられたのです。モノクロは現実ではない分だけ想像力を湧き立てる一面も有りました。流血沙汰も珍しくないプロレス中継は過激さも伴って、ショック死する人が出るくらいに人気が沸騰しました。テレビを自分の家に置きたい。当時の皇太子夫妻の御成婚と並んで、高価なテレビ受像機が大衆の家庭へ一気に普及した立役者。それが当時のプロレスであり、中心にいたのは力道山その人でした。

しかし華やかなブラウン管では映されない影の部分も当然有りました。力道山は大相撲の出身でしたので、日本でのプロレスにその影響が色濃く残されたのは当然でしょう。年配の方なら、三本勝負の際にスポンサー企業の掃除機がリングの上で堂々とマットの清掃に勤しんでいたのは、取組前の光景と同じようだったのを覚えておられるでしょう。後に本拠地となる恒常的なホールを建設(現存しません)しましたが、地方の巡業ではいろいろな形で従来の人脈は活きたはずです。
そういう旧態依然の体質は改めることは特には無く、厳しい上下関係の上に成り立っていました。まさに西洋式のスモウの一面も有ったのですね。スーパースターにも肉体的な蔭りが見え始め、試合の進行にもマンネリ化が目立つようになり、さしもの人気にも暗雲が漂うように。でもスターは一人で充分。確かに一代で築いた世界ですから簡単にはその人気を手放せなかったのでしょうね。

肉体と精神の衰えを紛らすため力道山は焦りました。精神は不安定になり、機嫌の善し悪しを周囲の人間は常に注意を払うようになり、意見が言えないことはさらに孤立を招くことに。こうやって悪循環は続きました。
後進の育成も行っていましたが、自分ほどの人気をすぐには得られそうにないというのも大黒柱が自分一人だという厳しい現実の前には通用しづらかったのも一因ですよね。プロレス以外にも積極的に事業に取り組んでいましたが、多くはプロレス興行での利益を消してしまうという皮肉な結果になったようです。

そして肉体の衰えは焦りにもつながります。成功者として弱みを見せられない力道山は粗暴な面が目立つようになりました。リング外でも数々のトラブルを起こすようになり、金と人脈による伝手で解消するようになったは辛い結果となりました。そしてついに事件が。高級クラブで些細な揉め事を起こしてそれが原因で傷を負い、その傷が結果としての致命傷になってしまったのです。自分の肉体に対する過信も有ったでしょうが、自分が築いた帝国を支えるのは自分だけだったという事情も有ったのでしょう。
40にまで手が届ない死でした。命日ではありませんが、死の切っ掛けとなった事件は57年前の今日起こりました。その一週間の間に力道山は何を考えていたのでしょう。力道山の会社はもう残されていません。しかし力道山が日本で蒔いたプロレスは遺された弟子たちを通じて現在まで受け継がれています。

問題もたくさん起こしましたが、やはり力道山は偉大な巨人でした。