利用者ブログ - 今日は何の日

◆日本文化のイメージ

◆日本文化のイメージ(https://pixabay.com/ja/photos/和傘-傘-和風-和-山鹿市-636870/)


【柔術から柔道へ 嘉納治五郎】(1860年(万延一)生まれ)

明治維新後の新しい日本で古き因習のように扱われていた「柔術」を、今や世界のスポーツたる「柔道」に育てた最大の功労者が嘉納治五郎(かのう・じごろう)でした。同時に東洋人で最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に、また幻で終わりはしましたが、1940年(昭和十五)の「第12回オリンピック東京大会」開催のために尽力されたことでも知られています。
嘉納自身は後に戦前の東京五輪が日中戦争のために返上となる前に、IOC総会出席した後の帰国途上の船中で逝去しており、戦争の不幸が広がるのを知ることなく人生を終えられたのはある意味幸福であったかもしれません。私達神戸市民にとっては嘉納治五郎は現在の東灘区御影の名家の出身であられるので、身近な存在に感じますよね。
嘉納先生の魂は3度目の東京五輪が無事開催されることを願ってくれているはずです。

【日本最初の公害事件のために人生を捧げた 田中正造】(足尾鉱毒事件(1901年(明治三四)))


◆再生のイメージ

◆再生のイメージ(https://pixabay.com/ja/photos/大自然-木工場-気候-4536616/)

明治維新は時代の変革が必要と感じた下級武士の階層によって成し遂げらえました。志士のイメージは勇ましくカッコ良いものです。しかし、多くの人が期待したことに反して、国情はお寒い状態だったのに関心を持った人はどれだけ居たでしょうか?。華やかなスポットライトが当たらない裏側は、利益とは縁が薄い人々の吹き溜まりのようにされていて、当時の為政者のほとんどは当然無関心でした。その中で「日本最初の公害事件」と後世呼ばれる事件が起こります。「足尾鉱毒事件」です。そして一人の男が残りの人生の全てを費やして、東洋に生まれたこの若い国家に戦いを挑みました。それが田中正造(たなか・しょうぞう)その人でした。

意外と知れられていないと思いますが、古来から日本は実は鉱物資源には恵まれてはいたのです。その証拠に戦国時代の頃までは銅鉱石は有力な輸出品でした。当時は急速に貨幣経済が発展し、大量の中国銭が輸入されていたので、原料を輸出して生産品を輸入していた形となります。そう、現在とは反対ですね。当時の世相については今回は触れませんが、この他にも銀や金も産出して、金貨・銀貨、そして銅銭という3種類の貨幣が必要性に応じて決済される通貨として流通していました。渡良瀬川(わたらせがわ)の上流に位置する足尾銅山もその銅の有力な産地として開発されていましたが、江戸時代の終わり頃には既に資源は枯渇したと考えられていました。

でも新しい国家は安定した財源を必要とします。自身の手での開発を考えなかった明治政府は銅山を払い下げ、次の持ち主は新技術を導入して鉱山開発を再開始ます。幸い新しい鉱脈が見つかり、足尾は日本最大の銅山として栄えることに。
でも当時は「環境問題」という概念は残念ながら存在せず、土壌汚染と水質汚濁、さらには精錬の際の排ガスによる環境破壊で大規模な環境破壊が起こってしまいました。これに対して周辺の農民達を中心にした集団は黙っていたわけではありません。彼らは救済の手を差し伸べてくれるように歎願しました。地元の新聞等もこの件を取り上げ、問題の提議を行いました。

しかし肝心の政府の反応は鈍く、有効な対策はなかなか施されませんでした。政府としても必ずしも無関心では無かったようなのですが、国策のための事業を止めるのは難しく、企業にとっては利益に結び付かないことに対する出費は望むものではなかったのですから。農民にとっては農業が思うようにできないことは即生活に直面します。次第に困窮の度を増す農民達。そういう彼らに救いの手を差し伸べたのは一介の国会議員に過ぎなかった田中正造でした。地元の名主の家系の出であった正造は若い頃から権力者との折衝に当たり、江戸時代の終わりにはそれが原因で命を落としかねない事態に追い込まれたこともありました。

正造の人生は権力との闘いの連続であったのです。

衆議院議員という肩書は役には立ちました。しかし困窮した農民達を充分に救うには明らかに力不足でした。それでも議員を辞した後でもそれなりの地位を認識されていたのは、正造の存在を認めていたからでしょう。次第に政府側も放置できないことを悟り、遅ればせながらも術が施されるようにはなったのですが。それを十分とは感じなかった正造はついに思い切った行動に出ました。

明治天皇への直訴に及んだのです。当時は「不敬罪」に問われかねない重罪であり、まさしく江戸時代と変わらない死を賭した行為でした。直訴そのものは残念ながら失敗しましたが、新聞等が大きく取り扱ったことでこの騒動が広く国民に認識されるようになりました。官憲側が非常に大きな権力を揮っていた当時、この事件は後に正造の目論見の一部が反映されたのは、盲従を常とされた民草の側の部分的な勝利だったと言えるでしょう。

正造はこの後も地元民の利益のために働きました。地元でも様々な思惑が絡んで決して一枚岩ではなかったので、その調整にも苦労したでしょう。正造は志半ばで1913年(大正二)に71歳で世を去りました。生涯を農民の救済に賭けた正造は全財産を捧げて、無一文同然だったといいます。そんな姿を見て狂人のように感じた人もいたそうです。孤独も感じたでしょう。でも多くの人を救うことに人生の全てを捧げたのは、並大抵の決意では叶うことではありませんでした。まさしく「義」の一言に尽きた人生でした。田中正造の人生で最大のクライマックスであった直訴は119年前の出来事です。

この日は第1回のノーベル賞の授与式が行われた日でもありました。全くの偶然ですが、世人のために尽くした偉人の重大な出来事が重なったのは面白いエピソードではあります。