【求めた王位ではなかった 英国王・ジョージ六世の誕生日】(1895年(明治二八))12月14日
今日12月14日の一番大きな出来事はなんといっても「義士の討ち入り」ですよね。しかし一連の「赤穂事件」のクライマックスである「吉良邸の討ち入り」の元禄十五年十二月十四日は西暦に換算すると1703年1月30日になります。日常の意外な出来事を紹介するのが目的ですので、今回はそちらへ譲りましょう。なお、事件の主な舞台となった現在の東京と赤穂義士の故郷の兵庫県赤穂市の他に、義士に縁の各地で12月14日に今日でも盛大な「義士祭」が行われています。
【求めた王位ではなかった 英国王・ジョージ六世】
後にジョージ六世となるアルバート王子が生誕したのは、ヴィクトリア女王の治世下であり、女王の夫(王配)であったアルバート公(1861年(文久元)没)の命日であり、王位継承第4位の新王子はその名を与えられたのでした。
普通の家庭なら新しい家族が加わるのは喜ばしいことなのですが、上流階級の頂点である家柄でも様々な事情はそれなりに有り、不仲な両親は育児にも興味を持たなかったため、家族の幸には薄い、寂しい少年時代を送りました。これは後にエドワード八世(王冠を賭けた恋で有名)となる兄のエドワード王子も同様でしたが、祖父(エドワード七世)そして父(ジョージ五世)の跡を継ぐことを正式に認められた兄王子に対して、その当時でこそ直系の列に加わってはいても、兄に子供ができる度に順位が下げられであろう弟王子では継承順位はあくまでも可能性の範囲であり、特に将来が期待される存在ではありませんでした。
アルバート王子は生来病弱でした。
さらに左利きを嫌われ、その上に脚部の矯正を強要されて、肉体の苦痛を伴うそれらの措置はまだ幼い王子にとっては苦痛でしかありませんでした。王子が内向的な性格になったのはこれらが原因なのかは不明ですが、長年の悩みとなった吃音はこの頃には発症し、他人との距離はさらに広がったようです。吃音に関しては日常生活では特に不便は無いレベルだったそうで、「プレッシャーに弱い」性格だったが故にそうなりがちだったというのも案外真相なのかも。
ともかくアルバート王子は人と語り合うのが苦手であり、後に王となって国民に向けてメッセージを送るのに苦労したのは事実です。この頃は王族や貴族の子弟は軍人として国家に奉仕することが一般的であったため、兄と同様にアルバート王子も軍人となるべく専門教育を施されました。しかし兄弟とも軍人には不向きで、その高い身分が故に在籍が認められたというのが真相のようですね。ただし王子も第一次世界大戦の時は一軍人として前線に出向いていますから、立派に義務は果たしていました。戦争終結後は王族としての公務に励むのが日常となりましたが、スピーチを求められると口下手なのが災いしてよそよそしい態度となり、陽気で社交上手な兄に比べると、人気者として迎られることは有りませんでした。
王子自身も王位に関係の無い、普通の王族の一員として気張らない人生を送るのが目的だったでしょう。王族は伝統として他国の王族・貴族との婚姻を求められますが、アルバート王子は自由恋愛を希望し、紆余曲折を経て無事に意中の女性と家庭を築き、娘が二人授かりました。この姉の王女が現在の女王・エリザベス二世です。王族としての誕生でしたが、アルバート王子が望まなかったのか、娘達は全くの庶民として育てられて、現在の「開かれた王室」の考え方はのこのようにして生まれたのでしょうか。
吃音に関しても専門の治療を受けた結果、重要なスピーチも次第にこなせるようになり、このまま将来の兄王を支える弟君として人生を送る、はずでした。
しかし、ある出来事が王室と英国を震撼させるのです。1936年(昭和十一)に父が崩御して兄のエドワード王子が予定通り即位はしました。
エドワード八世の誕生です。けれどもこの新国王は王妃となるべき女性を巡る問題から、突然の退位という大問題が発生したのです。
兄の即位で継承者の筆頭にされていたとはいっても、王位など本来は縁遠いと思っていた弟王子の人生は変えられてしまいました。「自分は何の用意もできていない」。
突然押し付けられた王位を次の王は喜びませんでした。誕生と同時に王位が約束されて、それに相応しい帝王学が何ら授けられていない身の上で、いきなりというのは確かに酷なことだったでしょう。王子本人も自分が王となることは望んでいませんでした。でも時代は強い指導者を求めていました。世界帝国たる大英帝国にいかなる動揺も有ってはならない。事実、世界恐慌から欧州も暗雲が漂い始め、後に現実の戦争にまで発展しました。
第二次世界大戦の勃発です。先の大戦では亡き父王・ジョージ五世が国民を常に叱咤激励して戦勝に貢献したのと同様に、欧州の大部分を席巻した大敵に怯む国民に対する強い指導力をジョージ六世にも求めたのです。
映画『英国王のスピーチ』では生来の吃音を克服し、未曽有の国難に怯える国民と海外領土の臣民に対して見事な演説を行って一致団結して戦争遂行に成功させる、強い国王の姿が描かれていました。
その先行きが危ぶまれてた、「頼り甲斐が無いかもしれない」王は、見事にその職責を果たせたのです。第二次大戦は前の大戦以上に英国にとっては苦しい戦いとなりましたが、窮乏生活を余儀なくされても国民に対して質素な生活を送る姿を見せることで戦意を高揚させて、一時は視線楚歌による降伏寸前の状態から戦局を挽回させた名君ともなったのでした。
融和政策がファシズムを結果として助長させた、という評価も確かに有ります。それは戦争だけは回避したいという消極的な姿勢が有ったのも事実ですけど、大戦を戦勝に導いた名宰相と協力して最後の勝利に導いたのは大きな功績なのです。でも勝利の代償も実は大きかった。大英帝国も本来は小さな島国に過ぎず、産業革命から得た生産力と派生した軍事力によって世界各地に得た植民地の多くが英国の支配から脱する契機になったのも事実でした。
特にインドでは第一次大戦の時に戦争協力に対して約束していた独立を反故にされたのを教訓として、今度は見事に独立(パキスタン等は分離しました)を果たし、「インド皇帝」の肩書を英国は失いました。それが現在の「小さな」大英帝国につながっているのですけれど、大帝国の斜陽は招いたものの崩壊を防ぐことができたのもジョージ六世の功績なのでは。ジョージ六世は戦後体調を崩し、長女のエリザベス王女が代わって国務を代行することが多くなりました。そしてついに52年(二七)に崩御しました。56年の生涯でした。兄のウインザー公が亡くなったのはちょうど20年後の72年(四七)でしたので、長い人生とも言えませんね。
もし重責の無い、一王族として人生を歩めたらもっと長生きできた可能性も有ったのかも。しかし国難を名宰相と共に救ったのは「名君」と呼ばれる十分な証拠と言えますよね。ジョージ六世の人柄を偲ばせるのはその王名にも表れています。実は「ジョージ」は名前の最後の部分(アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ)であり、家族や親しい人からは「バーティ」と呼ばれていました。それを「ジョージ六世」としたのは父の事績を引き継ぐことを世に表すために自ら選んだということです。
国民のため、そして世界のために人生を捧げた。それがジョージ六世でした。