【日本を離れて、「日本人」だと気付いた男 落合信彦】(1942年(昭和十七)1月8日生まれ)
「生まれだけで、その人の人生が決められるなんて、冗談じゃない」。
若い頃の彼は、きっと常日頃からこう思っていたことでしょう。ごく普通の家庭の生まれでしたが、後に彼が語ったように、父も母も「素晴らしい」人でした。ただ、父親の方は全てが常識の範囲を超越した、言葉にできないくらいの徹底した利己主義者であり、自分の勝手な生き方を貫くために家族を犠牲にし続けた、超絶無責任男であったのが、落合(おちあい)家の悲劇でしたが。半面、母親は生真面目一本で、「誰の世話にもなりたくない」との信念を貫いて生涯を全うした方でした。
それでいて困っている人には極貧状態であるにも拘わらず、進んで手助けをしていたというのですから、本当に素晴らしい女性ですね。
信彦(のぶひこ)少年は兄と共にそんな両親を見て育ちました。幼い彼の目には父親がとてつもないヒーローのように見えたのは、父親の世渡りの力がずば抜けていた点にあったようです。とにかく他人からの受けが良く、裏社会の者達からはその筋の大物として考えられたり、玄人女達からは言い寄られていたようで、勧善懲悪に徹した「理想の父親」と勘違いしたのも無理はなかったのかも。ただし、これは家庭の外の話であり、一度家に戻ると絶対的な権力者として家族を管理していました。
ヒーローとは真逆ですよね。それでも信彦少年は父親を慕い、暴君のような無責任男の生き方が彼に大きな影響を与え続けました。でも、そんな生活も突然終わる日が。父親が家族を棄てて新しい女と一緒に出て行ってしまったのでした。
「俺は世界一幸せだ」
この言葉を唖然とする家族に残して。豊かではなかった落合家の窮乏に拍車が掛かりました。
母は寝る間も惜しみ働き続け、秀才である兄は国立大学に難無く合格できるくらいの学力を持ちながらも進学を諦めて、現在でも有名企業である超大手の入社試験を受けることに。成績はほぼ満点という素晴らしい内容でしたが、ある理由により結果は「不採用」とされてしまいました。「落合家は母子家庭である」というそれだけの理由で。母と兄の苦労を知っていた信彦少年は、「自分はこんな社会なら、こっちからお断りだ」との決意を固め、新天地での生活を夢見るようになります。
それは日本を破ったアメリカ合衆国でした。落合氏は戦中の生まれですから、東京が敵の手により焦土とされ、生き残るために家族と下町を逃げ惑った経験があります。青年期を迎えた頃の日本はまだまだ貧しく、方やかつての憎き敵のアメリカは当時の世界唯一の超々大国として空前の繁栄を誇っていましたから。超豊かなアメリカと、復興をそれなりに遂げてはいるものの比較にはならなかった当時の貧しい日本。
そして何ら自分に責任がある訳でもないのに、家庭的に恵まれない人達への理由のない偏見にも苦しめられていたので閉鎖的な日本を見限った気持ちは痛いほど分かります。しかし、これは途方もない夢でもありました。未だに人種差別が色濃く残る異国で、ましてや敗戦国の何も持たぬ人間が受け入れられるはずがない…。
確かにそうでした。実現できたにしても苦労することは目に見えている。でも、日本にいても俺の居場所は無いに等しい。定時制高校に進んだ信彦青年は、来るべきアメリカでの生活のために日々の努力を重ねることを決意します。そのためには教科書レベルではない、「活きた英語力」が必要となります。青年の挑戦が始まりました。
高価な英英辞書を苦労して入手し、自分に厳しいルールを課して単語を覚えようがいまいが一定の時間が経つごとに破り捨てることにより不退転の決意を固める。昼間の運送の仕事の間は周囲に迷惑がられても米軍の放送をラジオで聴く。休みの日は弁当持参で場末の映画館へ通い、閉館まで映画を見続け、聞き取れた会話を懐中電灯を使ってメモする。
外国人を見かけると進んで話しかけ、無料の観光ガイドを買って出る。良家の子女が通う日曜学校で外国人宣教師の行う英会話教室に加わった。そこで貰った英語の『聖書』を貪り読んだこと。等等。落合氏はアメリカでの留学生活で「『聖書』で学んだことは本当に役に立った」と述懐されていますが、日本ではこのことに関する認識がまだまだ薄いようですね。それはともかくとして、こういった日々の鍛錬と努力はやがて報われることになりました。
アメリカでは日本とは比較にならないくらいに奨学金の制度が発達しています。「新天地をめざして」は実に聞こえの良い言葉なのですが、喰い詰めて夜逃げ同然で故国を棄てた人間は珍しくはありません。そんな移民達が先住民を追い遣り、後付けの連続のルールを何とか形にして出来上がったのが現在の合衆国です。社会的に成功した人達はその境遇に応じて社会奉仕を積極的に行う、という気風が浸透しているのです。
「貧しいけれども優秀な人には機会を与えよう」ということですね。それはかつての敵国であった日本でも適用されました。生活面を入れて在学中の全てが保障される質の高い奨学金制度も含まれています。ただ、その分だけに要求されるレベルも非常に高く、外国語教育が貧弱な日本人にとっては高い高いハードルとなっていました。信彦青年はこれに挑み、見事に合格しました。これには持ち前の勘の良さに大いに助けられ、「真剣に考えていたら時間的に間に合わなくなる」という的確な判断にもよるものでしたが。
非常に優秀な成績を収めた彼は、ここでも独自の考えを発揮します。「レベルの高い大学では必ず俺より優秀な日本人が先に来ている」との。落合氏は外国へ行ってまで「日本人という群れ」、を作ることに嫌悪を感じていました。出した答えは…。東部の小さいけれど知名度の低い優秀な学校。それはリストの中で直ぐに見つかりました。並んでいる文字は理想的でした。
でも、留学実現の最大の難関はクリアできても新たな大問題が。言うまでもなく、それは旅費でした。貧しい落合家では息子を新天地へ送る貯えなどありません。それに当時はドルの海外持ち出しに厳しい制限がありました。事情を話せばキリスト教系の学校でしたので旅費の工面も便宜を図ってくれたかもしれませんが、初志貫徹を自らに課した限りは自分で解決する。青年の出した答えは、貨物船で働きながら西海岸へ辿り着き、東海岸の目的地までヒッチハイクを続ける、という無謀さを含む壮大な計画でした。
横浜港でアメリカ行きの貨物船を探して船長に事情を説明して乗船許可を貰う試みが続きました。留学生用のパスポートと書類一式を見せても「前例が無い」との一点張りの回答が続きます。ここで諦められるか。成功するまで家へ戻らない覚悟のテント生活の日が重なります。そしてついに。
船内作業に従事することを条件に乗せてくれる船が見つかりました。喜んで家へ報告しに戻ると予想外の出来事が待っていました。それは「入国審査の際に提出するレントゲンに陰が見つかった」という衝撃的な事実だったのです。結核は現在で根絶していない厄介な病気ですが、当時は今よりも罹患者が多く、深刻な社会問題でした。受け入れる側も当然拒否します。
様々な困難に打ち勝って夢の新天地への道が拓けれたのに…。こればかりは努力ではもうどうにもなりません。ここまでか…。しかし息子以上に我が子の将来を案じていた母は思い切った行動に出て、この窮地から信彦青年は救われました。罹患する以前のレントゲンにすり替えて提出すれば何とかなるだろう。
当然不正でしたが、以前に例の父親とも繋がりがあった担当の医師は母の剣幕と熱意に負けて裏工作を施す決意をしたそうです。家族(父を除いて)は当然として、学校関係者、試験担当官、大使館職員、貨物船長、それに医師達の協力を得て、不遇だった青年の大志を遂げるための旅立ちはこうやって始めることができたのでした。
それから船での出来事、西海岸へ上陸してから最初のヒッチハイクで乗せてくれた黒人のトラック運転手、空腹続きの無銭旅行、難民の不法入国と間違われて警官に尋問されたこと等々が続きますが、無事に目的地へ辿り着き、新天地アメリカでの一人の青年の人生が本当の意味で始まりました。
無責任一代の父親がたった一つ教えてくれた空手が、暴力を根底にしたアメリカでの学生生活で実に役立った話や、ケネディ兄弟(特に弟のロバート)への熱い思い、度胸と巧妙な駆け引きで多くの怪人物達と渡り合ったオイルマン時代、悪夢のヴェトナム戦争…といった本当に面白い話を落合氏は著作の中で熱く語られています。1980年代からのことですが、人生に目的も意義も見い出せない多くの青少年たちに、「生きることの面白さ」を本当に教えてくれました。
その落合氏が感じたのは、「外国にいて自分が日本人だと感じることは特には無かったが、あるきっかけでやっぱり日本人だったんだ」と思われたそうです。表現力が足りないからその真意が完全に伝えられないかもしれませんが、人間には寄るべき物がやはり必要なのですね。たくさんのことを教えていただいたことに感謝します。
落合信彦先生。これからのより一層の活躍を期待しています。
恒例の一言コーナーです。本日1月8日は、或る超大物歌手の誕生日でもあります。
エルヴィス・プレスリー。1935年(昭和十)にミシシッピ州で生誕しました(成長したのはテネシー州メンフィス)。落合氏とは7歳違いですが、哀しいことに77年(五二)に42歳の若さでこの世を去っています。生きていたら86歳。きっと世界一セクシーでやんちゃなおじいちゃんになっていたでしょうね。