利用者ブログ - 今日は何の日


≪世界最古の法隆寺≫

「世界遺産」に登録されている「法隆寺」は現存する世界最古の木造建築です。明治の頃までは聖徳太子が建立されたこの寺が、創建当時の無傷のままの姿で今日に至っていると信じられていました。現在ではこの考えは変わり、一度は焼失して同じ場所に再建されたということになっていますが、それでも「世界最古」であることに異を唱える者はいません。太子が建てられたものではないにせよ、少なくとも飛鳥時代には既に存在して今日に至ると言う点は素晴らしいことです。飛鳥寺や四天王寺等が先に建立はされていますが、連綿としてその姿を止めているのは法隆寺のみであり、これも今日まで続いている「太子信仰」と同じく立派な伝統となっていますね。

しかし、その法隆寺も火災と全く無縁だったという訳ではなく、金堂壁面の焼失以外にも何度か小規模な火災には見舞われ、貴重な建物等にも被害が及んでるのです。ただ、同じ奈良県にある「東大寺」や「興福寺」のように中世には巨大な権勢を誇った大寺院も戦乱や失火により大規模な焼失が繰り返された悲劇は免れ、七世紀から現在の二十一世紀まで十五の世紀に亘り脈々と時を刻んだ偉大な歴史は他には見られないのです。これは聖徳太子の偉大なる事業に対する畏敬もそうですが、地元の人たちの火災を防ぐ並々ならぬ努力も大きかったと思います。

古代から現近代まで。この日本でも実に多くの騒乱が起こりました。先述の大寺院も源平の擾乱を含めて現実に兵火に見舞われているので、血に飢えた兵士たちの魔の手が法隆寺にまで伸びなかったのはまさに奇跡でしかない、としか言えないでしょう。これは、さすがに仏教を日本に広めた最大の功労者である太子に対する畏れもあったでしょうが、地元の人たちの生命を賭けた抵抗によって阻まれた、ということもあったのだと思います。
実は奈良は治めづらい土地であり、あの徳川政権でさえも粗雑には扱えなかったようで、簡単には言いなりにはならない、という伝統があったということになりますよね。古くは南北朝の南朝(末期には名目だけの亡命王朝でしたが)、戦国の「梟雄」の代表格であり東大寺を再び焼いた松永久秀、桃山時代の豊臣秀長による統治、南朝の縁で他の勢力とは一線を画した十津川郷士の存在、重なって紹介しますが南都の大寺院と神職(明治になって彼らの多くが「奈良華族」とされた)らが代表するように、一筋縄では行かない土地柄だったようです。

これは奈良県の地形の特殊性にも無縁ではなく、南部の山地では実に百を超える千メートル級の山々が聳え、現代でも人口の多い近畿地方でも思うようには開発されていない事情も絡んでいるのかも。
話が逸れてしまいましたが、このような複雑な歴史があった、ということです。それだけ深い信仰の対象にされていたということですよね。しかし、この安定していた立場にやがて大きな危機が訪れます。それは明治政府による「廃仏毀釈」の嵐でした。

≪岐路に立たされた法隆寺≫


中世には「北嶺」である「延暦寺」と共に称される「南都」の「東大寺」「興福寺」等は、当時の国家の手厚い保護を受けて大きな権勢を築いていた寺社勢力も時代の進展と共にその力を徐々に削がれてゆき、明治に至りました。それまで永く続き過ぎた武家政権の旧弊を完全に終結させるために、明治の新政府はさまざまな新しい政策を選びます。
それは人々の日常に深く根差す「信仰」も例外ではなく、「国家神道」を以てその中心とする方針は、それら以外の存在を弱体化させる必要性がありました。それは大寺院も例外ではなく、それまで安堵されていた特権の多くが容赦なく奪われ、貴重な経典や仏像等が破却の憂き目に合わされました。幸い法隆寺には直接の暴虐の手に晒されることは無かったようですが、窮地に立たされたのは同じことでした。


このままでは太子の事績が侵されてしまう…。

法隆寺が出した結論は「皇室に宝物を献納しよう」ということでした。現在の「東京国立博物館」に納められている「法隆寺献納宝物」はこの時の出来事による物なのです。本来は置かれるべき場所で保管されるのが好ましいのは言うまでもないことなのですが、歴史的・文化的・宗教的そして美術的に非常に価値の高い宝物達が無残に散逸することを防いだのは、意味のあることでした。
その後、フェノロサと岡倉天心らの手によって「夢殿」の秘仏であった「救世観音像」に学術的な調査が施されたのは確かに時代が変わったという証拠になるでしょう。長らくの伝統が侵された、という点に批判の声が向けられたこともあるでしょうが、新しい時代に対して宗教の世界も変わった、とは言えるのではないでしょうか。



≪金堂壁画の焼失≫


その後も法隆寺の建物や仏像に対して多くの調査が行われました。その結果、「法隆寺が再建された」という事も分かってきたのです。その時代の考えられる最高の技術を駆使した科学調査のもたらした精華は現代でも学術研究の対象にされるほど質の高いものでした。

日本では明治維新以降、伝統的な文化は否定される傾向にあり、貴重な文物が捨て値同然で海外に大量流出したり、文化的価値の高い建築物等が荒廃して行ったことを考えると異例であったとも言えるでしょう。これは西洋の「ルネッサンス」(文芸復興)と同様にこの日本でも「文明開化」が一段落して、歪な社会構造になりつつあったことに対して疑問を呈して伝統文化に再注目する動きがあったのも理由の一つでしょう。でも、六世紀に中国大陸で生まれた「文化」が東洋の東の果てにまで受け継がれた伝承の重さが最大だったように思えるのです。現に、現地でさえ既に文物が残されていないことも多く、華麗な仏教文化が花開いた中国の北魏からの伝統が色濃く残されている、非常に貴重な文物が数多く残されている点が評価されたようですね。

1934年(昭和 九)からは「昭和の大修理」が始められ、これは日本の命運を左右した太平洋戦争の最中においてさえも細々ながら続けられ、半世紀を経た85年(六十)に記念法要が行われ終了しました。長い年月を必要としましたが、一つの区切りを新たに遂げることができたのです。しかし、その間に法隆寺は大きな悲劇が襲いました。失火による金堂壁画の焼失です。

1949年(二四)1月28日朝。解体修理中の金堂から出火し、別の場所に保管されていた部分の建材を残してそれ以外の柱と壁面に描かれていた壁画に大きな被害を及ぼしました。他の建物に被害が出なかったのは不幸中の幸いでしたが、貴重な文化財の本来の優美な姿は永遠に喪われてしまいました。失火の原因は諸説取り沙汰されていて、電気座布団であるとも言われましたが、真相は謎のままです。

高名な日本画家達の手による精緻な模写図も残されてはいますが、オリジナルは復元不能となり、世界に誇る宝物の一つは姿を消してしいました。

「容のある物はいずれ喪われる」

それは確かにそうですね。しかし先人たちが懸命に、時には本等に生命を賭して後世の人たちへ次々とバトンをリレーするようにして護られてきた世界の宝物が無くなってしまった…。哀しい出来事でした。この失火事件は、ようやく敗戦の混乱から一息吐けた社会に大きな衝撃を与えたのです。それからと同じ年に松山城と松前城でも火災が起こり、これらの反省から1955年(三十)に「文化財防火デー」が制定されました。

≪文化財保護の課題≫

文化財の保護を提唱する運動は昔から行われてきました。しかし、さまざまな障害からまだまだ十分なレベルにまでは至ってはいません。これは恥ずべきこととも言えるのですが…。
行政側による予算と人員の不足。これは多くの人が論議する対象ですね。でもね。最大の要因はやはり私たちの文化財に対する愛情と理解の不足、それに危機感の欠如にあるのではないでしょうか。もちろん古い物の全てを残せと言っているのではありません。都市の再開発の最大の難点は調整にあると言えます。つまりは利益関係が複雑に絡み合うということですが、文化財の保護も当然無関係ではないのです。

残すべきものとそうでないもの。この判断は実に難しい。それを判定する基準も曖昧な点も。それに持て余し気味となった物も多く、所有者が判別しないことも。言う易し、というのが文化財保護の現実のようです。しかし一度喪われたものは決して元の姿へは戻せないもの。それを考えて上手に残すべきものを残し、そうではないものも今まで以上に入念に記録を残す、ということを常に心掛けなければなりません。

≪先人たちへの想い≫


法隆寺が先人たちの並々ならぬ努力によって今日まで伝えられたことは重ねて書かせていただきました。しかし、その残された姿も決して千古不易であったわけではありません。法隆寺の建築物の多くは木目の美しさが一際目立ちます。ただし、創建当時は仏像をも含めて極彩色で彩られていました。国宝第一号である「広隆寺」の「弥勒菩薩」は美しい仏像として知られていますが、絶賛された頬と右手の中指との間隙が、実は金箔が剥がれ落ちた結果であるというのも忘れてはいけないことですね。人は自分の目で見たことを信じやすいことは言うまでもありませんが、少し想像力を駆使して、歴史を遡って事物の真実の姿に思いを馳せる訓練もしてみませんか?。これには教養も必要ですが、経験を重ねることでも補えるのです。あのエンタシス様式と呼ばれる独特の柱も丹朱という鮮やかな朱色で彩られていたのですから。

それと江戸時代にも大規模な修理が施されていたのも。当時の記録はほとんど残されていないようですが、当時の大工たちの超絶的な技術が無かったら、法隆寺のあの優美な姿は伝えられていなかった、という話を聞いたことがあります。これも先人たちの、次の、また次の世代の人たちに対する愛の容なのですよね。こういう点も私たちは考えなければ。
でも私たちにも先人たちに対する愛があります。先述した興福寺の五重塔や、同じく日本で最初に世界遺産に登録された姫路城も明治時代には破却される寸前の危機に晒されました。これは有志の活動で回避されたのですが、この志の根底にあったのも先人たちへの感謝という「愛」だったはずなのです。
「姫路城は空襲されなかった」…とは断言できないようなのですが、姫路の市街が空襲で壊滅したのに対し、姫路城はほぼ無傷で残されました。これは大きな堀が類焼を防いだ、らしいのですが、戦前の残されていた城郭の多くが戦前の「国宝」(現在とは異なった基準による制定)ではあったものの、旧日本陸軍の軍事的拠点とされて、少なからぬ数の城が戦災に遭いました。原爆による倒壊となった広島城をはじめ、名古屋城、岡山城、福山城、和歌山城…。先述した松前城の天守も敵の空襲に対する保護が一応ははされてはいたものの、整備には手が及ばずに荒廃したままで放置され、ようやく再整備が始められる矢先に失火で全焼してしまった、という苦い経験があるのです。

近年になって城郭の復元は時期をしばらく置いての、ブームのようになって繰り返し行われてきました。再建に関しては法令に則って木造が認められないことがほとんで、戦前に市民からの浄財で建築された大阪城の天守をはじめ、戦後生まれのものは鉄筋コンクリートの、歴史博物館を兼ねた観光用の張りぼてなのですが、城たるもの、やはり主役である天守が無いとさまにはなりませんよね。嬉しいことに名古屋城の本丸御殿の再建のように、普段は使われない天守以外の重要な建物が復活される動きも見られるようになりました。天守は残されてはいても、領主たる大名が普段生活をする御殿は残されていなかったので、文化財に対する認識がより深まったことを実感しているのです。


重ねて書きますが「古いものの全てを保存しろ」と言うのではありません。ただ、残すべきものは積極的に残さなければならないのです。思えば、どれだけの至宝の数々が理不尽な理由によりこの世から消え去ったことか。それらは現在の国宝でさえ、霞んで見えるくらいの価値が含まれていたのです。失火、破却、汚損、盗難、売却による行方不明等々。一度消え去ったものは二度とその姿を見ることはできないです。まれに盗難品の再発見などが見受けられますが、期待度は非常に薄いとしか言えないのが残念なのですが。

法隆寺の金堂の失火も、長い歴史から見れば、非常に重要ではあるものの、過去から続いている文化財の被災の一例でしかないのかもしれません。無念ではありますが、確かにそういう見方もあるでしょうね。もっと大規模な被災の例もたくさんありますから。

しかし、この失火事件が「文化財を火災からより積極的に守る」という意識を人々に広め、後に「文化財防火デー」に繋がったのは、私たちの反省の成果なのです。焼損した壁画は現在、原則非公開ではありますが収蔵庫に納められており、戒めを固くして厳重に保管されています。その本来の姿はもう見ることはできませんが、これからも受け継がれてゆくでしょう。



≪未来の子孫たちへ≫


最後に。思いのほか長い文章になってしまいましたが、「文化は受け継がれてしかも生きている」という点を主張させていただきました。これから後の世。現在の私たちも、その頃の子孫に当たる人たちから見られることを忘れてはいけないのです。「あの時代の人たちがしっかりさえしてくれていたら…」。そうですね。現在の我々も責任ある行動をしなければいけないということを。
かつて、「金閣」(鹿苑寺)という国宝がありました。創建当時の金で光り輝いた姿は既に失われてはいたそうですが、室町時代を代表する文化の精髄たる建築物でした。しかし足利義満の夢を託した優美な建築も、一人の悪意による放火によって喪われてしまったのです。後年、精緻な学実調査を基にした再建が行われ、今度は創建当初の姿を模した、現在の二代目の「金閣」が誕生したのは周知のことですよね。それに対して「前の方が良かった」。こういう意見を耳にすることがあります。
でもね。再建されたからには、創建当時の美しい姿を蘇らさせるのも意味があるのでしょう。再建当時は資金難で、貼られた金箔も品質が高いものにできなかったそうですが、二度目の張り替え作業では質の高い物に交換できたそうです。その際に下地に塗られた漆黒の漆に輝く金閣の姿(シートの内側でしたが)をテレビの画面で見た覚えがありました。これも別の金閣の姿でしたよ。



願わくば、今の金閣も「昭和の名建築」として評価され、重要文化財、そして念願の国宝に復する火が来る日が現実となりますように。やはり、文化財は美しい方が良いと思いますからね。


これから訪れる未来の人たちよ。文化の素晴らしさを理解して、私たちをふくめた先人の遺産を永劫に受け継いでください。お願いしましたよ。