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ヨーロッパの古城のイメージ(ホーフブルク宮殿(ウイーン))

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【20世紀のお伽話の終わり 故・ダイアナ妃の別居が発表され離婚へ】(1992年(平成四))

今日も話題はたくさん有ります。
まずは誰しもが興味を持たれるであろうお話から。

遡ること11年前の1981年(昭和五六)、英国皇太子・チャールズ王子と貴族の娘であるダイアナ・スペンサー嬢が結婚した時には、このような結果になる事を誰も予想出来なかったでしょうに。童話のシンデレラのように思っていた人は多かったでしょうが、現実は酷薄でした。正式に離婚が成立したのはさらに4年を要しました。相当以前から二人の関係が冷え切っていたのは周知のことでしたけれど、英国民のほとんどが望んでいた次の王妃の誕生はこうして夢と消え去ったのです。皇太子妃ではなくったもののダイアナさんは元王族の責任を放棄することなく、進んで社会奉仕も行い、慎み深いその態度に多くの人が心打たれ、人気が衰えることは有りませんでした。離婚成立後は一人の私人として人生を歩むと思われましたが、翌年の97年(九)に滞在先のパリで不慮の事故により交際していた富豪の子息と共にこの世を去りました。36歳での急死に世界は深い悲しみに包まれ、生前のダイアナさんの人柄を思慕しました。ダイアナさんは逝去された後も今日まで人気が衰えず、王家のみならずに君主制について世人が真剣に考える機会を与えてくれた人物だと言えるでしょう。英国民そして世界は決してダイアナ妃を忘れません。

【ミスター・クリーンの登場 三木武夫】(1974年(昭和四九)政権発足)

前任者の田中角栄(たなか・かくえい)が金権問題で退任に追い込まれた後継に三木武夫(みき・たけお)がその政治的姿勢によって選ばれました。三木はクリーンな人柄で知られ、世人が求めていた高潔さを買われて、困難な政局の打開を図る自民党長老の意向によってでした。結果として三木武夫内閣は短命で終わりましたが、個性が過ぎる前任者の後始末に追われたが故に強力な指導力を揮えなかったのが原因なのかもしれません。現在でも評価が難しい人物のようです。

【フライデー襲撃事件】(1986年(昭和六一))


報道のイメージ

(https://cdn.pixabay.com/)

当時人気絶頂(現在でも人気者です)の芸人とその弟子達が自分とその周辺の私生活について暴露した写真週刊誌の編集部に抗議のため乱入した事件です。詳細には触れませんが、はたして人気者は「公人」なのか、という視点を世間に対して問う機会にはなりました。事件を起こした当人達は有罪となり、活動自粛という形でしばらくの間、お茶の間で彼らの姿を見ることはできませんでしたが、世人は拍手喝采を送ることは当然無かったものの、彼らを受け入れました。人気とは何か、他人の生活を許可無しに標的にしてでも人気を獲るには何もしてもいのか、ということを教えてくれたのもその答えなのでしょうか。

これからは生まれた方です。


【最後の海軍大将 井上成美】(1889年(明治二二)生まれ)


海軍軍人でありながら「大義に反する戦争には賛成できない」という態度で徹頭徹尾臨んだ信念の人です。それに反して、自らが口にした「海軍には一等から三等までの大将がいた」という言葉を逆手に取って「井上こそが三等大将その人だ」という辛辣な評価の声が上がるのは、軍人としての一番の誉れである「軍功」に乏しかったのも事実なのですが。井上成美(いのうえ・しげよし)は七〇年以上に亘る帝国海軍の歴史で最後となった海軍大将ですが、本人は大将進級を固辞し続けていました。終戦工作のために井上を海軍次官に据えたのは長年の同志である海軍大臣でしたが、大臣を補佐する次官は大将では務められない内規が有ったためでした。早期講和を最優先と主張する井上に対して条件付きの有利な講和を求める大多数の勢力に屈し、大臣は大将に進級させて次官の職を解く措置に出て海軍一の怜悧な人物は中央から閑職へと追い遣られたのです。軍政家として教育家として超一流の井上が海軍の最高責任者として辣腕を揮う機会に恵まれれば、戦争終結はかなり早くすることができた可能性も考えられたのですが。その井上は戦後は一切を語らず、清貧のまま生涯を閉じました。意に反する対米開戦を止められなかった自責の念も有ったでしょうが、最後まで信念の人であったのは見事でした。

【歌舞伎界の異端児と呼ばれても 二代目 市川猿翁】(1939年(昭和十四)生まれ)

当代の市川猿翁(いちかわ・えんおう)と呼ぶよりは、長年親しまれた猿之助(三代目)の名前の方が有名かもしれませんね。梨園(歌舞伎界の別名)の名門の生まれでありながらも伝統だけには縛られず、歌舞伎に特に興味を持たなかった人でも受け入れられやすい演出を盛り込んだ「スーパー歌舞伎」の創始者でもあります。現代風に意識して改作した古典作品も多く、保守派からは批判の声も上がりましたが、新しい可能性に挑んだ姿は新しいスタイルの舞台劇を生み出し、大きな話題となりました。現在は高齢に加えて健康状態も有ってか舞台からは遠ざかれているようですけれど、名前を譲られた甥(実弟である市川段四郎 (四代目)の長男)である猿之助(四代目)に受け継がれているのです。新作も旧作になるのはこの世の宿命。でも伝統も生まれる。やがては古典になるのは寂しい気もしますけれど、不動の人気作品という点を考えれば、例え演者は変わり続けても生命をその都度吹き込まれるということでもあるのです。このようにして文化は受け継がれるのですね。猿翁さん。舞台の上からではなくても、あなたが始めたスーパー歌舞伎も見守り続けてください。そして理由有って分かれていたご子息(香川照之)の市川中車(ちゅうしゃ)さんのことも。これからは若い人の時代ですので、お二人を今以上に育て上げてください。