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この地球上には六つの大陸があります。ユーラシア(アジア・ヨーロッパ)。アフリカ。北アメリカ。南アメリカ。オーストラリア。それと南極。これらの大陸と島嶼部を含む現在の「国家」は、開発度と人口密度に大きな差異はあるものの、先住民を含めて太古から人の営みが為されてきました。これに対して最後に挙げた南極は1961年(昭和三六)に締結された「南極条約」により領有問題が凍結されており、平和的目的以外が禁止されているため、世界各国が派遣している基地の要員を除いて常時定住している人間はいません。これは南極の気象条件が厳し過ぎて、かつ周辺海域が世界でも有数の荒れる海であるため、探検と商業捕鯨以外には人類が簡単には近づけなかったことが最大の理由でした。現在では分厚過ぎる氷床の下には無尽蔵に近い豊かな資源が埋蔵されていることが広く知られていますけれど、経済的視点と政治的な問題も絡めての資源保護の観点からも積極的に開発が行われていないことは望ましいことと言えます。しかし、条約が締結されているとはいっても、領土の主張が完全になされてはいないため、資源枯渇が進めば軍事的利用を含めてこういう主張が増えて行き、新たな政争の火種に発展する可能性は大きくなるでしょう。

私たちの日本も、恒久的な世界平和の実現のために南極観測に積極的に参加しています。
1月29日は、57年(三二)に日本の「第一次南極観測隊」が現在の「昭和基地」に当たる箇所に設営を始めた功績を讃える記念日です。

≪困難な南極大陸で観測を続ける理由≫


先述したようにごく近年まで南極は人類にとっては過酷過ぎる「未知の地」でした。北極圏には現在でも伝統的な生活様式を保って生活を続ける人々が存在しています。これに対して南極の定住民はゼロでした。
北極と南極では気温を含めて、気象面では相当の相違があるとは思いますが(南北の半球の差による季節の反転は除いて)、単純に寒さだけが理由ではないようです。十九世紀には鋼鉄で船体を造った船舶も登場し、それまでの潮目と風任せの帆走から外燃機関(レシプロエンジンや蒸気タービン等)、近年には内燃機関(ディーゼル、ガスタービン等)や発電機による電気推進、さらには原子力にまで動力も進化しましたが、人員交替と物資補給のために港と目的地との間を往復する船舶での航海は、極地用に特に開発された専用の砕氷船(艦)でも困難を極めるくらいに過酷なのです。
それと一旦天候が荒れ始めると数日間は猛り狂う魔の風が大きな障壁となったようです。南極に対するイメージでは誰もが抱くペンギンも、実はコウテイペンギン以下数種のみが棲息するだけで、海洋とその周辺を除くと陸上には藻類くらいしか生物が適応できない極限の地が貪欲な人間の侵略を阻み続けたのでした。人間が日々必要とする飲料水も当然、無限に存在する氷床を苦労して砕き(鋭利な刃物でも歯が立たないくらいの強度)、さらに加温しなければ口にすることすらできないのですから、食糧以前に燃料がまず必要となるので、伝統的な「生活の知恵」程度では生存は不可能でした。後述するスコット隊の全滅も想像以上の極低温による携行燃料の亡失が原因でした。

極地探検は現代でも死と常に隣り合わせなのです。


それでもそのような困難な白い大地に多額の費用を費やして少なくとも当面の利益とは無縁と思えても多数の科学者と関係者を送るのはなぜか?

いろいろな理由があるでしょうね。でも、最大の理由は「人類に残された最後の処女地」であることに尽きるでしょう。観測衛星による精緻な地表の観測の結果、少なくとも「目に見えるレベルでの発見」はもう期待できなくなりました。砂漠に埋もれた古代都市や密林に飲み込まれた遺跡等も周辺の痕跡から発見に至ることも珍しくはなくなったのです。
「月面にまで到達した人類にとって、残された未知の領域は深海と南極の氷床の下のみである」(北極は北極海という氷の海)。
大袈裟な物言いですけど、きちんと根拠があるのです。地球は水の惑星ですがそのほぼ全ては実は海水であって、人類を含む全ての生命が必要とする真水は僅かに1パーセント程度に過ぎません。これに対し、南極大陸を厚く覆っている氷床は2パーセント。
どれだけの量なのでしょう。南極はオーストラリアの2倍程度の広さはありますが、それを差し引いても氷床の規模は想像を絶するスケールです。



大陸棚にも無尽蔵な資源が眠っていることが確認されていますが、政治的な問題が絡んで思うようには開発ができないのは周知の事実ですよね。人類は海洋の最深部への挑戦も続け、60年以上も前に有人の潜水装置を用いて深度1万メートル以上に達しており、事実上深海をも制したことにはなります。これは象徴的な出来事ではありますが、自由に深海を有益に利用できるレベルではなくて、「宝の山を目にしながらも手が出せない」状態であると言えるでしょう。これは南極の氷床の下も同様で、日夜各国の観測隊が行っているボーリングの結果、様々な科学的な成果が出てはいるものの、まだ調査の域は出てはいないでしょうね。これだけの苦労を重ねねるのは、それだけ南極の未知の部分に対する期待が大きいからですね。よりいっそうの科学的な究明が待たれるところです。


≪日本の期待を背負って≫

先の戦争に日本は敗れました。その結果、日本は戦勝国側に管理されて国家としての基本的な機能を失っていた時期があります。それは世界平和のための科学的な調査も対象に含まれ、時には理不尽と思われるような措置を課せられたことも。時は流れて、世界の政治が福雑に絡み、復興も一段落を遂げた日本は西側を含めた国々との間で国際的に復帰することを認められ、制限付きではあるものの再び国家として一人立ちすることができました。その反省からも「これからは国際貢献の時代だ!」という意識が国民の間にも充分に浸透しました。その象徴的な出来事の一つが南極観測への参加だったのです。

しかしその志は高いものではありましたが、多くの困難が待ち受けていました。端的に言えば「金も物も、人さえも無い」ということになります。まず南極へ行ける能力を持つ日本の船がありませんでした。旧日本海軍にも氷海を拓く砕氷艦(海上自衛隊に在籍した「ふじ」と新旧二代の「しらせ」も正確にはこの艦種)はありましたが1隻しか建造できず(後継艦は計画のみ)、既に解体されていました。そこで元々は戦前にソ連が北氷海域用に日本へ特別に建造を依頼していた海上保安庁の灯台補給船「宗谷」(この船に関する詳細なお話は別の機会にします)が急遽必要に応じた回収を施して南極まで派遣されることになったのです。氷の海でも使用される前提の船ではあったものの戦争中に酷使された、十分な性能を持たない船を安全に運航できるのか。

こちらは関係者の不眠不休の働きでなんとかなったものの、過酷過ぎる南極の氷の上に十分な性能を持つ基地の設営には問題が山積していたのです。何よりも予算が足りない。物資も足りないし、情報も不足している。消耗品はともかく、高度な精度を要求される資材の確保が不可欠でしたが、その目途は立ちませんでした。「時期尚早かも」という言葉が関係者の頭を過り、「南極観測隊の派遣を中止または延期すべき」という世論の声も上がります。しかし国際社会に復帰したばかりの日本はその象徴となるプロジェクトでの成功が必要でした。ここで官のみではない民をも巻き込んだ一大国家的プロジェクトへと進化しました。

多くの民間企業が協力を申し出て、人的な布陣も徐々に形になって行きます。その協力を申し出た企業の中には今日の日本を代表する新進気鋭のメーカーが多く含まれていました。もちろんそれぞれの思惑はあるでしょうが、新規事業への最新技術の提供(無償を含めて)は貪欲にチャレンジする精神の表れであったのは間違いないことでした。こうして寄せ集めのようではあっても、白い大地へ果敢に挑戦するプロジェクトチームは船出しました。彼らの決意は「新しい日本の真の姿を世界に披露する」という点にあったでしょう。

≪待ち受けていた困難を克服する≫


南極の本格的な調査は二十世紀に始まり、明治末年の1911年(四四)には人跡未踏であった南極点は人類の手に落ちました。北極点到達が09年(四二)ですので、2年遅れということですね。この際にはノルウェーのアムンゼン隊と英国のスコット隊の激しい極点を目指すレースがあったことは広く知られています(スコット隊の5名は帰途、全員遭難死している)。
第三勢力として日本からも白瀬隊が参加していましたが、南極点へは到達できませんでした(白瀬元中尉は「成功の見込み無し」として明治政府の金銭的な協力を得られず、借財を負っての自力の事業だった。政府の本格的な援助があれば結果は変わっていた、という考えもある)。このように日本にとっても朝からぬ縁がある南極のへのチャレンジが時を経て再び行われました。しかし、その意義あるプロジェクトは想像以上の困難に見舞われたのです。


日本の南極での観測拠点は当時の日本の年号に因んで「昭和基地」と命名されました。この時は持参した資材の都合で現在の同基地のような本格的な設営は不可能で、越冬する隊員たちが必要とする最低限度の建物等しか建設できませんでした。それでも「宗谷」が離岸するまでの短い期間で成し遂げられたのは下準備が功を奏したと言えるでしょう。
しかしその「宗谷」は帰路の途中で氷海に閉じ込められ窮地に追い込まれたのです。この時は微妙な関係であったソ連の砕氷船に救出され無事に日本へ帰還することはできました。

「この船では力不足だ」。日本は新しい砕氷艦を文部省の予算で海上自衛隊に持たせる決定を下しました。


これが「ふじ」です。しかしその代艦が就役したのは1965年(昭和四十)であり、「宗谷」は越冬を行えなかった「第六次隊」(61年(三六)派遣)まで老骨に鞭打つ形で使用され続けたのでした。
その間の「第二次隊」は悪条件の積み重ねにより中止せざるを得なくなり、ヘリコプターを使って隊員の収容には成功はしたもの犬ぞりの牽引役として集められていた樺太犬が取り残されるという悲劇も起こったのです(この話も別の機会でさせていただきます)。また、同基地では隊員の死亡事故も起こしてしまい、極地観測の厳しさとその現実を改めて国民に知らしめることになりました。万全を期して始めた国家的プロジェクトではありましたが、このように日本の限界を露呈してしまったのは残念なことでした。観測隊の予定されていた派遣回数は当初は2回でしたが、このような出来事が起こったのにも関わらず延長が決定したのは国と国民の南極観測に対する希望が高まっていたからでしょう。しかし「宗谷」は限界に達し、先述の「六次」を最後に昭和基地は閉鎖されることが決まりました。
「七次隊」が再び白い大地を踏んだのは「ふじ」が就役した65年で、その間は日本の南極観測の歴史に空白が生じることになったのです。



≪昭和基地だけではない≫


満を持しての「ふじ」の登場は日本の南極開発に新しい頁を開きました。先代とは比較にならない能力を駆使して昭和基地は回を追うごとに充実してゆくのです。その「ふじ」も既に引退しており、その役割は後継艦である新旧二代の「しらせ」が担いました。そして今日では「昭和」の他にも「みずほ」「あすか」そして「ドームふじ」の新しい拠点も列に加わりました。
「みずほ」「あすか」の両基地は既に無人化されて機械による気象観測等が行われていますが、先述の3基地が割合海岸線に近い場所に置かれているのに対し有人の「ふじ」は大陸中央部の富士山よりも高い高地に位置し、南極の夏季に「昭和基地」から隊員が出向き、研究と観測が行われています。周囲は南極でも特に気温が低いことで知られ、ウイルスでさえ存在しないほどの過酷な環境となっています。そこでも日本の期待を背負って隊員の方々が励んでおられることを誇りだと思って欲しいのです。ごくろうさまです。そしてこれからもよろしく、と。

南極でのこうした活動はメディアでも取り上げられ、私たちはお茶の間で眺めることができます。映画も何本も作られ、観たという方も居られるでしょう。両方の極地に対して我々が抱くイメージは「静寂な地」だということでしょうか。しかし現実はとても厳しいのです。気流と海流の関係で両極地は汚染が進み、地球温暖化等も拍車をかけて環境破壊が止まらないのが現実なのです。機械化が遅れた時期に移動の主役を担った極低温に耐えられる犬(先の樺太犬等)も持ち込めなくなったのも生物環境の保全という理由でした。現在、南極は観測隊が放置した廃棄物等からの汚染も深刻で、放射能等を含んだ危険な状態になっているのです。

これからの社会のテーマは無責任な「成長と繁栄」ではなく「秩序有る進展」となります。その実験場としての役割も南極は果たしているのですね。あの愛らしいペンギンの姿を、絶命させてしまった、ペンギンによく似た姿のオオウミガラスの隣に並べてはいけない!。これからの私たちの責任はとても大きくて重いのです。それが「地球人」たる未来の私たちの課題ですから。