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現在、日本でプロ野球がホームグランドとするとするドーム球場は6箇所。東京、福岡、大阪、ナゴヤ、西武、札幌の各ドームです。セントラルとパシフィックの各リーグに6球団ずつが所属しているので、半数の球団が本拠地としている計算となります。最初に開場したのが「東京ドーム」で1988年。昭和の最末期の六三年ですので、現在のドームはこれ以降に建設されたため、平成はドームの時代だった、と言えるでしょう。

ドーム球場の最大の利点は「雨天中止」とならないこと。プロスポーツ以外のコンテンツも非常に充実した今日ではテレビの地上波での放送も本当に少なくなりましたが、テレビ局にとっては日程が組みやすいという点も評価されたのも大きかったでしょう。球団にとってもレギュラーシーズンに中止のための不都合(チケットの調整や人員の配置・手配、テナントの飲食物の仕入れ等)の軽減や、周辺交通機関の対応も好都合だったため、新たに拠点を移した球団が増えました。観客にとっても完備されているエアコンにより夏場の暑さ、冬場の寒さから解放されて好評だというのもうれしいことなのですが。

もちろん、欠点もありますね。ホームゲームの消化が早く、ペナントレースの終盤はドームを本拠としない球場でのビジダーが増える、投手の酷使、人工芝とコンクリートの脚部への負担増。そして過密スケジュールの間に与えられる雨天による貴重な休日が消えるなど、球団の経営者にはありがたいドームの、不利な点が肝心の選手に強いられる点があるのです。これだけドームが増えればこういう点もいちいち上げ連ねることは少なくなったようですけど、完全に解消されたとも思えません。こういうのもプロスポーツの別な魅力とも言えるでしょうが…。

それはそれとして、今日3月18日は日本で最初の、その東京ドームが開場した記念日なのです。


≪後楽園球場の老朽化と新球場建設への期待≫


日本人なら誰しもが知っている「甲子園」が高校野球をはじめとするアマチュア野球の聖地なら(プロ野球のメッカでもあります)、今はなき「後楽園」はプロ野球の聖地でした。日本で職業野球が始まったのは1936年(昭和十一)のことで、意外にも東京にはプロ野球の興行が本格的に行われる球場はありませんでした。六大学野球で有名な神宮球場は新たに始まったプロに好意的ではなくてアマ優先、急造された球場も利便性が悪くて不評だったのです。



そこで急遽、この当時は空地だった小石川・後楽園の地に待望のプロ専用球場が設えられることになりました。これが東京ドームの開場まで日本のプロ野球で非常に重要な役割を果たした「後楽園球場」なのです。昭和三十年代から一大ブームとなった少年漫画や本格的にはじまったテレビ中継などで、いろんな形で人々の記憶に留まっている、まさしくプロ野球の聖地でした。


その後楽園も経年劣化という厳しい現実の波が襲い掛かり、景気の退潮によるプロ野球の人気の低迷、さらにスター選手の相次ぐ引退によりさしもの人気球団にも焦りが生じました。「この打開策は…」。幸い、球場の裏側には新球場を建設できるだけの候補地は存在していました。東京ドームが所在する一帯は世界でも珍しい、大都市の中心部に所在する娯楽の殿堂でもあるのです。現在でも遊園地の設備やリゾートホテルが用意され、東京都民や関東地方で生活される方々の憩いの場として親しまれています。そのレジャーの中心地には、かつてはギャンブルを愉しめる施設も用意されていました。「後楽園競輪場」がそれでした。かなりの人気を誇っていたのですが、革新系の都知事の「脱ギャンブル」方針で72年(四七)に廃止され、それ以降はプールやゴルフ練習場として利用されていたのです。「新しい球場を作ろう。それも今までに無かったものを」。計画は始まりました。作るのなら日本一を、という意気込みが感じられますよね。しかし予定通り物事が進まないのは世の常。様々な困難が新球場建設にも待ち受けていました。

≪技術の集結が新球場を支えた≫

言うまでもなく新球場建設は巨大プロジェクトです。地元との調整を含めて、多くの事務的な手付きを全て完了しなければ計画倒れで終わってしまいます。無人の野に球場を設えるわけではありません。日照権などの困難な問題も当然絡んで来ますし。花の都・大東京の一等地で新たな試みは解決しなければならない事柄が山ほどあったのです。

まずドームの形状をどうするのか。これにはお手本が既にありました。野球発祥の地、アメリカでは複数のタイプのドーム球場が人気を誇っていたのです。建設に関する最高首脳部が出した結果は、密閉式の屋根の構造ではなく空気膜構造方式を採用することが決められました。工期が短く建設費が抑えられるという点が魅力でした。しかし日本での野球場としての使用実績は当然無く、エアドームにするための素材選びと施工業者をどうする…。この答えは何とか見つかりました。意外な所に日本でも既に巨大な同様の施設が建てられた実績があったのです。それも10年以上も昔に。その建築物を担当した会社がプロジェクトに加わりました。それは1970年(昭和四五)の「日本万国博覧会」の際に一番の人気を誇った「アメリカ館」だったのです。
はい、「月の石」の大行列ができたあのアメリカ館ですね。アメリカ館以外にも空気圧を利用したテントのようなパビリオンは他にも幾つも存在していました。それらの中でもアメリカ館は群を抜いており、「太陽の塔」と並んで日本万博を代表する存在でした。

≪テントから始まった巨大ドーム≫

日本万博は日本の高度経済成長の最後の象徴的な出来事として我々の記憶に残されています。当時はベトナム戦争の最中でもあり、冷戦が平和の祭典にも目に見えない形で持ち込まれていました。世界唯一の超超大国の座が揺らぎ始めたとは言え、アポロ計画などで他国にはできない圧倒的な力を持つアメリカは目に見える形で、巨大な国際的イベントでその力を誇示する必要がありました。月の石の展示もその一つでしたが、実はこのアメリカ館こそ空気圧を利用した世界最初の巨大ドームであり、当然世界最大でもありました。一番背が低かったのは「EC館」だったそうですが、このアメリカ館もその大きさに比して高さはとても低く、その半面、東西世界のもう一方の雄、ソ連は一番高いパビリオンだったのもこの時代の勢力の縮図を見た気になるのですけれど…。
政治的な問題は別として、この構造が選ばれたのは、柱を必要としない点にもありました。そう、東京ドームも実は場内には一つも柱が無いのです。スポーツに限らず、興行では見晴らしの良さが求められ、柱などの存在は観客にとっては邪魔でしかないのですから。またその分だけスペースが広く取れ、他のイベントでも有効に配置が行えるのはとても大きな利点でした。でもこの日本でそれまでに普及できなかった大きな理由がありました。

本来は建物の安全性を厳しく求めるが故の「建築基準法」が大きな妨げとなったのです。

法律の上では、万博等の国家の威信を賭けた巨大プロジェクトでも、人々を収容して展示物を並べるパビリオンは「仮設の建物」とされたのですから。各地を移動して行われるサーカスでも巨大なテントが使われますが、この当時の技術を集結させたアメリカ館もテントのように扱われたのです。開催期間が終われば恒常的でない建物、つまりはパピリオンは消耗品として扱われ、特例として引き取りが認められた物以外は次々に解体されました。アメリカ館も再利用を申し出た企業があったにもかかわらず、保存は叶いませんでした。
効率的に処分されるために屋根が燃やされる映像が残されていますが、確かにこういう点では火事に対する危険性が残るために当局側が積極的に認めないというのも理解できるでしょう。利点も大きいけれど、技術的に解決できない点の方が大きいからドームが日本で普及しなかったことになるでしょう。万博から早半世紀余。まだ関連の建物などもいくつかは残されていますが、年を減るごとに少なくなってき来ました。歴史的な価値をも含めて、何とももったいないことですな。

≪素材選びから屋根作りが始まる≫

ドーム球場で一番重要なのは屋根づくりです。東京ドームにも実はあの巨大な屋根部分に補強用の梁が入れられているので、見方によっては超巨大な傘だとも思えてくるのですが、初めて尽くしのプロジェクトでは屋根をどうやって設えたのでしょう。
屋根を担当してくれる会社は決まりました。球場本体を担当するのは、多くの巨大建築物で実績を残して来た日本を代表する建設会社ですので、基本的な概要が決まれば安心して任せる事ができました。しかし、最初のシートを使用した巨大ドームであるアメリカ館の実績はあるものの、今度は次の張り替えまでの長い期間中安全に一定の水準の強度を保たなければならない今回の難易度は比較にはなりません。失礼な言い方ですが、今度は消耗品のようには考えられないのです。費用に特に拘束の無い案件とは違い、限られた予算内で解決しなければ、歴史に名を残せるかもしれないけれど事業としては失敗する。困難な新規事業は、まずその素材選びから始められました。


軽く、薄く、丈夫でなければならない。昼間の採光もある程度配慮しなければならない。密閉された観客のための断熱性も。当然防火性も。梅雨や台風で悩まされる日本の特性のための防水性と耐久性も。そしてなるべく安く…。まさしく矛盾のてんこ盛りですね。
しかしご安心あれ。技術大国日本の伝統はこのような困難を根気良く解決することで培われて来たのですからね。今回もこういう困難を無事に解決して、昭和の終わりから平成の三十年余、そしてこの令和を経ても東京ドームは無事に運営されていますので。


比較の結果、素材はアメリカ産のガラス繊維を含む厚さ1ミリ以下の新素材が布材に選ばれ、各種の強度実験が行われることに。けれど、ここで意外な事実が判明したのです。均一だと思われた布材に相当な強度の差があるということが。すでに大量の発注が行われていたため、製作会社はアメリカのメーカーに改善を当然求めました。しかし相手は「機械の能力の差だから」という一点張り。この事業のために新工場が建設されていたためここでプロジェクトを放棄してしまえば最悪会社倒産の危機が…。
どうすればいい。この危機は「異なる強度なら、それぞれを適した部位別に使用する」ことで解決しました。細かい作業にまで適応できる日本の面目躍如ですね。こうして外側を例のアメリカ産の布地、内側は国産という思わぬ形の日米合作が日本初のドーム球場の屋根として葺かれたのです。



ドームの屋根があのように膨らむのは、実はあの膜の内外に気圧差を生じさせることによるのですが、念入りな実験と計算では確かに成功を納めました。模型の段階で梁の部分に不具合が見つかり、金具が膜を傷つけるアクシデントに見舞われた時は改修を強いられました。
肝心要の屋根葺きはうまくいくのか。現場の責任者の号令一下、場内を加圧させるための空調機にスイッチが入れられ、巨大な白い袋は徐々に膨らんでいきました。「成功してくれ!」。全ての関係者は祈りました。そして…。

広い東京に新しい名所が加わりました。現在ではもう使われていませんが、ドームのもう一つの名前である「BIG EGG」(ビッグ・エッグ)そのものである新球場はこうして誕生したのです。多くの試行錯誤を経た、技術陣の勝利の瞬間でした。


≪天井にボールを当てないように作れよ≫


屋根の次に球場本体に話を移します。
後楽園を本拠とした球団には世界最高峰のホームランスラッガーが在籍していました。彼の最長ホームランは何と150メートル越え。ドーム球場はこの時の数値を参考にして高さを決めることにしました。それから打球の飛跡を求めるため、多くのデータが集められたのです。その結果、60メートルは必要だということが判明しました。しかし、これは大きな問題でもありました。新球場の北側には徳川御三家である水戸家の藩邸だった「小石川後楽園」(特別史跡・特別名勝)が所在していて、日本式庭園を彩る樹木のために「太陽光を遮ってはいけない」という厳しいルールが課せられていたからです。これに対して設計陣が出した答えは…「球場の北側を低くしよう」でした。この結果、東京ドームは高さが同一ではない、という独創的なスタイルとなりました。


世界一のホームランバッターでもこの屋根には当てることができないんだ。そう考えられて設計されましたが、それでも万が一を考えて、屋内球技場専門のローカルルールが設えられました。詳細は省きますが、フェアゾーンに相当する区画に当たって直接捕球されたらアウト。特に認めらえた部分(後述する天井から吊り下げられたスピーカー等)に当たれば「認定ホームラン」で、それ以外でグラウンドに落ちたら二塁打。フェア区域以外なら当然ファウル。
飛球が天井部分に当たらなければこういうルールは必要無いので、設計に携わった人はこう考えたでしょう「飛球を当ててはいけない。けれど、それだけにぜひ当てて欲しいものだ」。設計段階とは違って、現実の球場を作り上げた関係者は胸を張ったことでしょう。自分たちの仕事に絶対の自信があればこういう考えもあるでしょうからね。

しかし、不測の事態が起こるのも人間の世の常。想定外のことはやはり起こりました。



≪歴史的な飛距離が算出された認定ホームラン第一号≫


結果から言えば、この巨大ドームの屋根に当てることは不可能だと思われた奇跡は認定ホームランが出る前に現実に起こっていました。実は打球の飛跡の研究段階で「一番高く上がるのはホームランではなく内野フライだ」ということが判明していたのです。けれども投手にとっての華が「振らせての三振」ならバッターの方は「ホームラン」。フライの俗称は「テンプラ」とも言います。ホームラン性の飛跡が本当に美しいのに較べて、上がるだけ上がって最後は捕球されるだけのフライは期待外れですよね。早くも開場の年に当てるだけのフライは発生したのです。けれど、「単に特大なフライとホームランになるべくして飛ぶ打球は根本的に違うのだ」。関係者の中にはこう思われた方も居られるでしょうか。現実にホームランとされる実例が生まれたのはその翌々年でした。


偉大な記録には伝説もつきまとうものなので、日本最長のホームランにも実は諸説があり、先のホームラン王の記録が最長ではないようです。それはある意味当然で、スタンドもしくはそれを飛び越えてもホームランはホームラン(ファウルは論外)。飛距離を競うことは特には無いため、場内でさえも正確な距離の判定は困難なのにましてや場外弾ともなれば、伝説の一面が先走るのもうなづけますよね。

しかし日本史上初の認定ホームランは確かに超・特大な一発で、スピーカーに当たらなければどれだけ飛んだのか。誰しもが認める価値ある一撃でした。



その距離は160メートルとされ、特別な場所での特別な記録としてファン以外の人の間でも大きな話題となったのです。でも上には上があるのも世の中。これも推定ですが、別のドーム球場で180メートルというのが定説のようです。それにしても凄い!


認定ホームランにならなかった、惜しい一発も。屋根の膜は空気圧の調整などの目的でかなりの数の開口部が設けられていて、球場自体のそれと共に対応する特別ルールも用意されています。ボールがこれらに入り込み戻って来なければ、フェア区域ならボールデッドとして二塁打とされ、ファウル区域ならファウルとされます。日米両国で活躍した日本の強打者も、会心の一発を放ち「ホームランだ!」と誰しもが思いました。しかし肝心の打球は行方不明になってしまい、この特別ルールのため二塁打とされてしまいました。何とももったいないです。後日、このボールは無事に見つかったのですがそこは外野の照明付近だったそうで、膜の空間部を巧みに抜け落ちたということですね。これも興味深い話です。
現在は大リーグで投打両刀使いで知られる選手も同様の一撃を放っているので、損をしたのは一人だけではないというのもおもしろいと思います。これらの不運ながらも幸運なボールは、東京ドーム内に所在する「野球殿堂博物館」で本人のサインが入れられて飾られています。金銭的価値にすればいったいどれくらいになるのやら。東京ドームを訪れたらこちらへも足を伸ばす価値は十分ありそうです。楽しみですよ。

≪野球以外のドームの価値は≫

このように東京ドームが日本のプロのみなならず、野球界、いやエンターテインメントの世界でどれだけの貢献を果たして来たことか。1964年(昭和三九)の「東京五輪」の時に開催国である日本の伝統武術から生まれた「柔道」が正式種目にされ、その晴れの舞台として「日本武道館」が建設され、以降、ここは各種の格闘技の殿堂となりました。と同時に、音楽に携わる人々にとっても聖地となり、ここで公演を行うことが彼らのステータスとなったのです。当時、絶大な人気を誇った「ザ・ビートルズ」の日本公演がここで行われたことももちろん関係あるでしょう(残念ながら武道館での最初の音楽公演ではありません)。もちろん音楽専門のホールではないので音響効果という点では劣るでしょうが、観客の収容数では大きな魅力となったのは間違いありません。数多くの著名アーティストたちがこぞって来日し、多くの日本のファンを楽しませてくれた功績は本当に大きいのですから。


東京ドームは大きな入れ物です。各種スポーツは言うに及ばず、音楽、ショービジネス、大規模イベント、それに入社式などの本当に多種多様の催しが行われたのです。天候を気にせずにすむ屋根付きというだけはなく、抜群の知名度というのも本当に大きいのですね。屋根の有無に関わらず日本各地の球場は本来の目的の野球以外でも昔から多くのイベントが行われて来ましたけれど、東京ドームほど相応しい場所は他にはない、と思わされるのです。もちろんこういう点も建設時点で計算に入れられていたでしょうが。


1988年(昭和六三)3月18日。東京ドームで伝統の「巨人対阪神」のオープン戦が行われ、日本初のドーム球場は落成披露されました。と同時にそれの日はその存在が常に注目され続けた一人の主戦投手の引退式の日でもあったのです。

新しい時代の到来と、一つの時代の終焉が同時に行われた印象深い出来事でした。



東京ドームの「こけら落とし」(こけらとは「木屑」を意味し、劇場開きを意味する言葉)は先の巨人阪神戦ですが、開場日とされているのは式典が行われた前日の17日であり、この他にも多くのイベントが種類別にその列に加えられることも。ボクシングのヘビー級のタイトルマッチもその一つであり、会場であるドーム以外でもテレビ観戦で日本中の多くの人が世界のスーパースターの雄姿に喝采を送りました。こういう点でもいかに東京ドームの誕生が世人にとって待ち侘びた証拠であり、その人気は今日まで続くものとなっているのです。各地にこの後続々と建設されたドームのブームは東京から始まり、雨天が多いこの日本で着実に受け入れられました。何事も魁(さきがけ)は素晴らしいですね。


しかし、全天候型を謳ったドームであっても思わぬ出来事に遭遇することも。荒天以外の理由で「興行中止」となった事例も何度か現実に起こっているのですから。東京ドームの屋根は常時膨らませておかなければ膜が持たない構造ですので、試合時と無観客の時は台数の差こそあるものの、送風機で風が送られていて、十年前の東日本大震災による電力の供給制限が騒がれた時期には深刻な問題となったこともありました。内外の空気圧の差で屋根が保たれている意外な弱点でした。

それはともかく、今やドームは野球ファンだけでなく本当に多くの人に貢献しているので、欠かせない存在となっています。

≪これからのドームの在り方は≫

この日本でプロ野球が始まり既に80年以上の時間が流れました。紆余曲折を経て、何度か大きな区切りも経験しました。現在、地上波でのプロ野球のレギュラーシーズンの試合中継は減り、、クライマックスシリーズ、そして日本シリーズでさえもカードによれば放送されないことも。これだけ娯楽の幅が出ても今なお一定の人気を誇っているのは素晴らしいですが、やはり盛時と比較すれば寂しいですよね。

野球を生み出した本場のアメリカはドーム球場を生み出した本場でもあります。現在でもドームを本拠とする球団は多いのですが、古典回帰とも言うべき、脱ドームとしてのボールパーク化の開放型新球場建設が主流となりつつあるのです。日本のプロ野球は常にアメリカの大リーグをお手本として来ました。まあ、興行の点ではまだまだ多くの点で有利なドームが急に下火になることも無さそうですけど、新たな本拠地が開放型ということも起こっていますから、楽観視はできないかも(ドーム建設が不可だったという見方もありますが)。


東京ドームも誕生から早30年余り。代替球場の建設は気が早いかもしれませんけど、遅過ぎるということもないでしょう。こういう点も加えて、確かに日本でのドーム球場も時代の曲がり角に差し掛かっている気がします。


敢えて東京以外のドーム球場の名前を記さなかったのには理由があるのです。「ネーミングライツ」が日本でも採用されてこれはかなり普及してきました。球団経営に安定した収入をもたらす方法は経営陣にはありがたいことでしょう。しかしファン側からすれば数年おきに頻繁に変わる名称を覚えるのは一苦労でもあり、中には戸惑うような名前も…。ファン側からの評価はイマイチということでしょうね。現在、球場名が変わっていないのはほんの僅かなので、古くからの野球ファンの中は少し不満に感じる方も居られるでしょう。しかし、この権利が売れなかった例もありますので、これはこれで悲しいことです。



≪東京ドームの意外な話≫


東京ドームは後楽園競輪の跡地に建築されました。当時から都の公営ギャンブルは廃止方向でしたので、後継施設が建設されることはありませんでした。しかし含みも残されており、東京ドームは自転車競技も行われるように設計もされているのです。今回の「2020 東京五輪」でも自転車競技の開催候補地として検討されたこともありましたが、こちらは叶いませんでしたけれども。
競輪の復活は多くの手続きが必要なので、簡単には行かないでしょうが、将来的な展望にはその方向性も残されているのです。現に廃止された西宮球場は西宮競輪が行われていたので、球場と競輪にも浅からぬ縁があり、もしかしから・・・という点を考えるのも楽しいでしょう。いずれにせよ、楽しいことが増えるのは大歓迎ですよね。ただし、サイフのヒモの管理を忘れずに!