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海と山。この両方が神戸なのです。地形だけの話ではありません。人間の英知は空想だけに止まらず理想の現実に向けて行動することで真価が発揮するもの。我が街・神戸で今から40年前に行われた、夢の人工島の落成を記念した半年に及ぶ祭典について紹介させていただくことにしましょう。

【海上都市の祭典 ポートピア'81が開催される】(1981年(昭和五六))

神戸の歴史で重要な出来事には平安時代末期の「福原遷都」が挙げられます。言うまでのなく京の都は千年余に亘って我が国の首都でしたが、ほんの数年にせよこの神戸が都とされた時期がありました。今回のテーマではないので詳細は省きますが、当時の最高権力者だった平清盛は日宋貿易で平家繁栄の基を築き、その拠点であった大輪田泊(現在の和田岬周辺)を整備してさらに新都の建設にも着手しました。

これは急すぎる改革であり、結果として事業は失敗に終わりました。顛末は別として、この土地が多くの可能性を含んでいたのは事実なのです。 神戸は東西に長く、その旧市街は南は大阪湾、北は六甲山地に挟まれていて実に風光明媚ではありますが、正直平地は少なくて坂が多い、商工業にとっては恵まれてばかりとは言えない形状なのは周知のことですね。先述の幻の都で終わってしまったのも、中国の唐の都であった長安を手本としたような碁盤状の都市の建設には不向きだった点も大きかったと思われます。つくづく残念なことでした。とにかく神戸は土地が不足していて、この点が改めらることなく幕末の開港を経て現在に至りました。

≪山を削って海を海を埋(うず)めよう≫

開港から以降の神戸の発展はめざましいものでした。当時の日本の主産品であった生糸を始め、軽工業から重工業への移行が成功してこの神戸は西の港町として、東の横浜と並ぶ日本を代表する商港として世界に知られるようになったのです。市街地も整備の手が年を経るごとに加えられ、戦前には日本の六大都市の列に加わるほどの発展を遂げました。ほんの数十年前まで、ばらばらに治められていた村々を寄せ集めたことを考えると夢のような出来事のようです。
しかし、基本的な街の構造は人間の貧弱な力では改良には不十分で、大規模な水害にも見舞われ、市民が危険に晒されたこともありました。そこで戦後にはなって河川の改良や山の防災事業も行われたものの、それだだでさえ不足している土地を改良する余地はほとんどありませんでした。ではどうするのか。山を削って新たな市街地として、その残土を利用して海を埋め立てて人工の島とする。実はこれを実践した先例はありました。それも同じ神戸に。そうです。先述した平清盛の手による大輪田泊の造成がそれでした。
もちろん基本牛馬と人の手、それに対して大型建機という条件の違いはあります。しかし発想時代は同じですよね。このようにプランニングだけなら、明治以来数多くの人が夢想したことでしょう。けれど夢を実現させるには多くの障壁があるのです。新市街建設と人工島の造営は都合二代の市長の手で成され、着工から完成まで15年を要したのですから。


≪ポートアイランドの造成が始まる≫


神戸市西部の丘陵を削り取り新しい都市を作り、またその残土を利用して生田区(現・中央区)を中心にして人工島を造成する事業は昭和四十年代初頭に始められました。意欲的な事業は試験的な意味合いを含めて最新鋭の技術がふんだんに盛り込まれて、完成時には世界最大の人工島となったこの「ポートアイランド」(PI)は世界に誇る存在となって、無事完成しました。昭和五十年代半ばのことでした。


埋め立て地の多くはその機能が工業的・通商的に限定されることが多く、こと景観に関しては配慮されることはあまりないようです。この点、このPIとその拡大改良版である「六甲アイランド」(RI。私たちのイメージリンク(IML)が所在しています)はそれらに加えて、山の手ならぬ「海の手」としての最先端の都市造りの要素も盛り込まれ、機能一点張りな殺風景な埋め立て地とは根本的に異なる、新たな海上都市としても建設されたのでした。
両人工島は輸出入の作業を効率的に行うコンテナバースの整備から事業が始められ、無人運転を基本とする新交通システム(ポートライナー(PL)は世界初)、工場の誘致と建設、学校やマーケットに病院といった生活に欠かせない施設に階数を競う高層マンション、人工島だと感じさせないくらいの緑に溢れた公園などが効率的に建設されたのです。



先の阪神淡路大震災では液状化という不測の出来事に見舞われ、孤島と化したこともありましたが、基本計画が優れていたために復旧は早く、現在ではその災禍も教訓として取り入れ直し、以前よりも繁栄しているのは確かな先見の明に裏付けられていた証拠だと言えるのです。
PIも着工からしばらくの間は、神戸港のシンボルでもあった深紅の「神戸大橋」以外は目立つ物が特にはない、単なる空地でした。
その空き地が次第に広くなり、港湾設備と道路が整備され、ダンプカーが行き交う造成地に建設中の建物の数が増えて行きました(RIも同様)。その殺風景な海の上の埋め立て地が一応の完成を遂げ、それを祝う祭典が行われることに。これが、後の地方博ブームのきっかけとなった「ポートピア'81」(神戸ポートアイランド博覧会 以下「'81」)だったのです。


≪実利としての日本版万国博≫


「日本万国博覧会」が1970年(昭和四五)に開かれて10年と少し。この間に75年(五十)に「沖縄国際海洋博覧会」が開かれからは中小規模のものを除いて、大規模な国内博覧会はしばらくの間は開催されませんでした。ここで簡単に日本における博覧会の歴史を振り返ってみましょう。
近代的な博覧会は既に十八世紀の終わりに革命の最中のフランスのパリで始まり、科学技術が飛躍的に進歩して工業と商業の発展のシンボルとして万国博覧会が各国で開催されました。この当時は鉄とガラスをふんだんに用いた「水晶宮」の大きさが国力の象徴とされ、その大きさが競われた時代だったのです。



この万国博は大きな成功を収め、東洋の一小国に過ぎなかった謎の国「ジャパン」にとっても開国期に国際的な認知を高めるために、中央政府(徳川幕府)と地方政府(薩摩藩)が別個に出展して話題になったこともありました。多数の観客に工業製品と珍奇な動植物や工芸品を大々的に陳列するという方法は当時の人々の、未知の土地と文化に対する憧れと興味を抱かせる方法としては最適でした。陸の鉄道網の整備と海の大型鋼製船舶はそれまでの世界観を一気に変え、世界の構図が定まったのです。人間の好奇心はこのように文明の発展に寄与して来たのでした。


明治の始まりの頃は世界の流れから取り残されたこの東洋の端ての小国をいかにして近代化(富国強兵)するのか。アジア・アフリカの多くの地域が西欧列強の手で蚕食されていた時代です。いかに当時の明治政府が焦っていたかが分かるでしょう。それに対する答えはなりふり構わない西欧化でした。詳細は省きますが、殖産興業の一環としてその一翼を担ったのが日本版万博とも言える「内国勧業博覧会」でした。これは大成功を収め、東京を皮切りに京都と大阪という、当時の日本の三都で行われ、その影響は日本各地の津々浦々まで浸透しました。私たち日本人の知的好奇心の遺伝子はこの頃には確立されたということでしょうね。耳の学問よりも眼(まなこ)から始められる学問。


西欧の進んだ文明は元よりこの小さな日本の工芸品や各種特産物に直に触れられる機会は確かに新しい時代の到来を世人に知らしめる効果は絶大だったでしょう。内国勧業博覧会は博覧会と言う本来の目的だけではなく、会場跡地を都市型公園として再整備することでも大きな功績を残しました。現在の上野・岡崎・天王寺の各公園がそうです。江戸時代のような木造建築物が密集するような前時代の町割りが、環境の整備を含んだ近代型都市への改造という点で防火そして非常時には非難用地として機能を発揮したのです。このように内国勧業博覧会は日本の近代化に大きな役割を果たし、私たち日本人の記憶に博覧会の善きイメージを植えこみました。そのプラスの遺伝子は今日まで着実に受け継がれていますよね。



1940年(昭和十五)には「紀元二千六百年」を期した「幻の東京五輪」が予定され、それと同時に同じ東京で万国博も開催されるはずでした(五輪は万博のイベントの一部だった時代があった)。日中戦争の激化で両方とも返上となったのは周知のことですが、平和でなければ世界のためのイベントが開けないことを肝に銘じてそのありがたみを忘れないようにしましょう。

博覧会大好き、な日本では85年(六十)の「つくば万博」(国際科学技術博覧会)、90年(平成二)の「花博」(国際花と緑の博覧会)、2005年(十七)の「愛・地球博」(2005年日本国際博覧会)と国際博覧会が開催されて来ました。そして4年後の25年(令和八)には55年ぶりに大阪の地で再び「関西万博」(2025年日本国際博覧会)が開催される予定となっています。東京の五輪・大阪の万博・札幌の冬季五輪(2030年大会(令和十二)を招致中)のスタンスは高度経済成長期のサイクルの繰り返しの気もしますけど、楽しみです。コロナ禍を無事に終えていることを信じて待つことにしましょうね。


≪20年早く21世紀が訪れた'81会場≫


1981年(昭和五六)。PIは完工しました。島内には市内の医療の拠点たる中央市民病院が最新鋭の設備を整えて移転して来て、また市の中央部である三宮と島内をつなぐ足としてPLが「'81」の開幕の直前に開業して、海上未来都市の誕生に花を添えました。現在ではPIの二期工事も終わり、さらに沖合の神戸空港までPLは延伸していて、利便性はさらに向上しています。その技術の集積たるPLも開業当時は初期故障と不具合の連発で「トラブルライナー」と揶揄されたこともありました。そのありがたくない呼び名も改善により完全に過去のものとなり、その後各地に建設された新交通はこのモデル事業の成功によりもたらされました。RIの六甲ライナーもその一つですね。運転手が不要(開業当初は有人だった)という運行スタイルは確かに未来を象徴する出来事でしたね。



「'81」の開催はPL無しでは行えなかったでしょうけれど、それは1964年(昭和三九)の「東京五輪」と「東海道新幹線」のセットと同じような関係だったでしょうね。大規模なイベントはそれに関係する事業が伴うことも多く、総合開発事業としての側面も持ち合わせているのです。20年早い二十一世紀の到来を告げる造成地での大規模な地方博は、半年の会期中に当初の目標を大きく超える一千五百万人以上の入場者を数えて大成功で終わり、この神戸に金銭的以外にも様々な点で大きな利益をもたらしました。


開場には地元関西に縁がある企業のパビリオンが目立ちましたが、神戸市と兵庫県、それに国際関係の出展もあり、国際港湾都市での開催にふさわしい異国情緒に充ちた空間でした。中国からのパンダも特別な施設が設えられて公開され、東京・上野と同じくその愛らしい姿を見るための行列も同じようにできたのです。現在の博覧会や人気のアトラクションでは入場整理の対応がきちんとされていることが多くなりましたが、この「'81」の会場では人気のパビリオンで長蛇の行列ができ、数時間待ちということも珍しくはありませんでした。この点は非常に残念でした。でも、この点を反省して後に行かされたのは「'81」が切っ掛けだったように思えるのですけれど。とにかくすごい人気だったことは確かでしたよ。



隣接する別の会場には遊園地も建設されて、こちらは「'81」の終了後も運営され人気を博しました(現在は閉園)。親子連れやカップルなども楽しめる、最新の遊技機がずらりと揃った夢の空間でしたね。


≪夢が残したものは…。そしてこれからは≫


博覧会は恒久の事業ではくて会期を区切った祭典。ですので当然終わりもあるのです。会期中には一日万人単位で訪れた場所も役割を終えて次々と解体され、その姿を消しました。けれども現在も残された建物も。「神戸市立青少年科学館」と「UCCコーヒー博物館」は当時のパビリオンを利用・再整備した人気の施設です。その他に「神戸国際展示場」も当時の建物でした。もしPIを訪れる機会があられるのなら、この当時を思って面影を探してみるのも面白いと思いますよ。試してみてくださいね。


PIはこの後も拡張工事が続けられ、PIを象徴する建物の一つである「ポートピアホテル」の南側は海だったのが、現在は距離が離れているのはその証拠なのです。さらに「神戸空港」もさらに沖合に新設され、こちらも延伸したPLで繋がれて神戸市民の空の玄関口となっています。中央市民病院も移転当時のものから再移動して神戸市民のみならず医療の新たな拠点として貢献しています。さらに周辺は「医療産業都市」を目指す神戸が誘致した企業・研究施設等が進出し、最先端を構築しています。世界でも最高峰の性能を誇るスーパーコンピュータも建設され、科学都市神戸の中核としてこれかもより一層の発展が予想されているのです。素晴らしきかな、わが神戸!



先の震災では大きな被害も受けましたが、神戸は復興しさらに発展を遂げています。PIはその神戸を一番象徴する区画でしょう。山の緑を見つめながら海の上で生活し、さらに大空への道が…

「'81」は訪れた入場者が造成地の地固めをしてくれるという効果をももたらしてくれた一面がありました。作られた島も万全ではなく、不具合がでている箇所も。再整備のための大規模なイベントが正直欲しいと思うことも…。もう一度、あの頃のような華やかな雰囲気も味わいたくなりました。その時はより以上の歓迎と歓待でお客様をお迎えしたいですね。実現したいものです!