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母親に対して、父親という存在は身近であるようなそうではないような…。価値観が多様化した現在では様々な意見が社会的に認められるようになりましたね。その分だけ慎重に配慮しなければならない事情も増えましたが。それはともかく女性はより強く、男性もそれを尊重する傾向は今後もずっと続くようです。しかし家庭を持っている世のお父さんは、愛する家族のために努力を重ねているのは確かですよね。そこで敢えて。「母の日」に対していまいち印象が薄い(かのような)「父の日」が今回のテーマです。

<意外と長い歴史>

先述しましたが、父の日は母の日に対して始められました。これは多くの人が歴史的な経緯抜きに、感じられているはずですね。日付も母の日の方が早く、その一月ちょっと遅れて祝われるという時間差も関係するでしょう。正直、付け足し感は否めません。

しかし歴史の面では時間差自体はほとんど無いことに多くの人は気づいていないようです。母の日が始められたのは1906年(明治三九)とされていますが、父の日はその翌年に提言されているのです。これは意外でした。同じアメリカで、同じように亡父に対する娘の提案から始められたので、この両者には共通点があります。広く世に受け入れられたのは少し後になるのですが、単純に性差に対する配慮(対抗?(これは冗談です!))から始められたのではく、苦労して亡くなった親御さんに対する娘の愛情から始まったことで世の中の注目を集め認知されたということでしょう。本当に世の中は女性の涙には敏感ですよね!

発祥の地・アメリカでは現在、父の日は国民の祝日(母の日も同様。ただし公的機関の休日とはされていない)となっているので、少なくともこの日本よりは扱いが上になっています。これは先進国の文化に準拠するという日本の独特な性格も関連しているようなので、致し方が無いとも言えるでしょうか。ともかく歴史も文化も全く異なる外国の行事に対する関心が高くはなかったのでしょう。

<日本ではどうだろうか>

母の日もそうですが、この父の日も日本においては自発的な社会運動というよりは、小売業界が商魂たくましく始めたイベント、というのが実情かもしれません。わかりやすい例ならクリスマスとバレンタイン、最近ではハロウィンが挙げられますよね、これからは日本においては特に宗教的な意味を含んではいません。

敗戦後、戦勝国からは民主主義を含めて多くの思想や風習も持ち込まれ、伝統的だった和風の生活様式が一変して洋風に変わりました。そしてそれらの多くはすでになんらの違和感もなく日本の社会に受け入れられているのです。現在のインドである天竺生まれの仏教が形を変えつつ中国を経て日本へもたらされてその教えが広がったのと同様にこの国は一度変化を始めたらその対応は実に早くその上に上手いのです。これは日本人の優れた特質であり、適応力の高さだとも言えるでしょう。こういう変化のあり方は、生活と宗教が隣り合わせであることが多い外国の方からは終始一貫制を求められ、「無節操だ」とも見えるのかもしれません。日本では集団が尊重されがちです。「個」は「己」であり「孤」。さらに「虚」。「枯」までありますね。対する「集」はまずは「衆」。さらに「秀」「修」「収」「就」「宗」(頭目という意味もあります)「拾」…。まあ、「醜」と「愁」も含みますけれどね…。ともかく。個人が意見を述べる、というのは好ましくないとされがちです。情報もそうですが、物流と同じく明確な流れが確実に存在して、一般大衆は好むと好まざるにかかわらずにそれを享受して影響を受けるのが現在の社会なのです。


「他の人もやっているから…」。基本が旧来の「ムラ社会」のままの日本ではそれは特に如実ですよね。大多数が異議なくそれを受け入れるのなら問題点を提議する必要も特にないのかもしれませんが、こういう点も海外の方には不思議に思われるようです。「日本人は主体性がないのか」。でも最近では伝統にこだわらない人も増えつつありますから、こうしたギャップも徐々に埋まって来るでしょうか。そろそろ横並びの思想はやめにしたい。これが広まれば、画一的な行事にも新しい流れが加わって新たな文化が生まれる契機になって欲しいものです。


あ、父の日を批判していはいませんよ。白いバラにネクタイ。お父さんのタンスにただ下げられているよりは、お父さんが欲しいものを聞いてみる…。予算もありますから希望に添えないことの方が多いでしょうが、選択に幅が広がる方が好ましいのでは。靴下、ハンカチ、傘、ベルト、財布等々。まあ並べてみると大差が無いようですけど、父の日に一緒に出かけて選んであげるのもお互いのためのサービスになりますからね。それに清楚な白よりも濃い色の花を選んであげるのも良いのでは?。バラにこだわる理由もないと思いますよ。地味なイメージの方が先行しがちですが、世のお父さんたちももなかなかにおシャレなのですから。華やかな色の方が愛情を感じることが多いかもしれませんしね。さあ、勇気を持ってやってみましょうよ。

照れくさそうに笑うお父さんの顔を見て送る側も満足と感謝を感じる良い機会になることをお祈りします。



<白いバラが持つ意味>


赤いカーネーションと白いバラ。両方の記念日を代表する彩りです。別の記事で母の日も最初は「赤」ではなく運動の提唱者である女性が社会運動家だった亡き母を偲んで「白」を捧げた、ということを書かせていただきました。父の日も始まった頃は、同様に健在な人は赤を、亡くなられた方には白を捧げる、ということが提唱されたこともありました。根本の考え方は同じだった、とうことですよね。互いに本流が反対になったのは面白いことです。母の日は日夜家族のために働いてくれている母に感謝するため、生者に対する感謝と言う点は理解しやすいでしょう。


対して父の日は…。深い理由というよりは、差別化を進めるために白が選ばれた、という気がするのです。そうですね。シンボルカラーということでしょう。華やかな演出で両者はよく一緒に飾られる機会がありますが、確かに同一の系統ではなく、より目立つ差異のある配色の方が好まれるでしょう。ケーキのイメージとしてイチゴと生クリームが思い浮かびやすいのと似ているでしょうか。こう考えてみると、世の中で多く取り入れられているのはきちんとした理由があるようですね。シンボルとなるカラーと季節を代表する花。この組み合わせが自然に落ち着いた結果だと思えてきました。



しかし、画一的なことにこだわる必要もないでしょう。先にも書きましたが、白いバラだけでなく、それぞれの方が思いを込めて自由に選択して感謝する。これが広まればより華やかな父の日になるでしょう。それぞれが個性を期そうというのも楽しそうですしね。是非、そうなってもらいたいものです。


<がんばろう、お父さん>

性差が積極的に取り沙汰されたのは、それだけ女性の社会進出が進んだことの証明となります。それも一気に。そしてさらに加速していますよね。
それに反して、世の父親に求められる家庭人と社会人として貢献の要求も増す一方です。この両立は頭で考える以上に実は難しいのです。かつての父親たちは「家族を養っているんだ」という意識が強かったのは紛れもない事実でした。そしてそれを現在まで引きずっている人もまだ残されています。人はそれぞれなので生き方も考え方も同様です。しかし世の中が変われば生き方も変わる。以前のように社会人としてだけに重きを向けている姿勢は通用しづらくなりました。そうですよね。家庭人としても資質が求められる時代に進んでいますよね。
世のお父さんたち。ごくろうさまです。愛する家族のため、仕事だけでなく、また付き合いの延長だという理由付でやっている余暇の過ごし方を少し変えてみませんか。家族はあなたが思っている以上にあなたのことを見ているのです。そして心配している。「誰も何も言わないから」、という理由で家庭での仕事を疎かにしていませんか。


まだまだ家庭内でも力関係は存在していますから、お互いに言い辛いことは残されているでしょう。けれど思いやりをお互いにすることで家族の絆をより深めることができるのです。そうですよ。家族は愛の力で結びついているのですからね。
急に生き方を変えるのは無理もあるでしょうから、簡単なことから始めましょうよ。思いやりの言葉一つでさえ、家族のあなたに対する見方が変わるのですから。それからできることを一つづつ増やすのです。もちろんゆっくりで構いませんので。


そしてお母さん。夫に対する理解をもっと深めましょう。求める一方になりがちではありませんか。妻の理解の有無で夫の社会的な能力が大きく左右されるのです。愛の力は正比例。愛さるよりはまず愛する。これが円満への秘訣なのです。
子供たちも。君たちの笑顔でお父さんの心はとても癒されるのですよ。それにお父さんを大事にしたら、きっと良いことが…。おっとこれは余計でしたね。とにかく仲良く暮らせる努力は実は簡単。お父さんとお母さんを好きであればあるほど幸せも大きなるからね。とりあえず父の日に「ありがとう」の一声から。花やプレゼントよりもお父さんは喜んでくれるよ。
微妙な年頃の君たちは無関心を装うよりも、「父の日おめでとう」くらいは言いましょう。「いまさら恥ずかしいよ」ではなくてね。大人になるための儀式として、礼儀としてこれも必要なのですから。



最後に。人の生き方は本当に色々で、家庭の事情もそれに伴い定義づけできることではありません。でも誰もが善き人であり善き家庭人でありたいと思っているはず。そのことを念頭に書かせていただきました。この雑文が6月の第3日曜日の伝統的な行事に良き貢献ができることを願っています。どうか楽しい一日でありますように。