利用者ブログ


<少年の眼に映ったオキナワ>

ここまで本当に長くなってしまいました。けれどもアメリカから日本へ返還される前の沖縄について読んでいただくことで少しでも当時の世相を理解していただきたく思い、書かせていただきました。
これからは概略ですので「自分の手で本作を知りたい」という方にはお勧めできませんが、進めて行きます。


●1968年(昭和四三)頃の沖縄本島のとある場所。上の学校へ進むこともしなかった一人の少年は日常を自堕落に過ごしていた。家族は米軍基地で働く父と市場で働く身籠っている母に弟と妹で、生活は楽ではなかった。当時の沖縄はベトナム戦争の後方基地として多くの米兵が駐屯していて、生活環境は悪く住民の感情も穏やかではなかった。だが少年は世の中の動きには無関心で、このまま無気力なまま成人するかのようであった。そんな彼だが時折入手する金で高価な薬品を母のために購ったり、米兵の同年代の息子と交流したりする面を持っており、完全なる不良というわけでもなかった。少年は父との関係に悩んでいた。厳しい父は伝統的な沖縄の闘牛の名手でもあり、家族よりも自宅で飼育している牛の方を優先していると思い込み快くは思っていなかった。父も当然少年に不満を抱いて家庭は母の尽力でなんとか保たれているという状態である。一家は空軍基地の近くに居住していて、昼夜を問わずの騒音に悩まされていたが、無気力な少年は無責任な暴言を放つ。沖縄の現実に怒りを抱いていた父は激怒し、少年は殴られる。少年は母の制止を振り切り、夜の帳の中へ飛び出してしまった…。


●母は少年の身を案じるが父は取り合わない。それどころか精魂を込めて世話をしている牛の方が可愛い、とまで口にした。落ち着きを取り戻して家族には気づかれぬように家の外で中を覗いていた少年はあることを決意した。それなら俺よりもかわいい牛を売り払ってやる、と。
誰にも気づかれぬように牛舎へ向かい、この家で一番の財産である闘牛を連れ出してしまった。父は愛する牛が息子の手で連れ出されたことに慌てて彼らの後を追った。母と弟は兄と父を心配して一緒に二人と一匹を探しに夜中の戸外へ出たのだった。

●本気で肉にするつもりで牛を連れ出した少年だったが、本能的に危険を悟った牛は抵抗を始めた。名人である父と違って多少の心得程度では巨体を制することは叶わず、牛は勝手に家の方へ帰ってしまった。少年は落ち込むものの近くの米軍の関連施設で廉価の飲み食い自由の催しが行われていることを思い出し、気晴らしにそこへ向かった。



●家を飛び出した息子と牛、それを追う父を探しに夜の戸外へ出た母と弟。兄とは違っておとなしい弟だったが、苦しい生活に不満を持っていることは同じで母にそれを向けた。母は正論で諭すが、そこへ突然、米軍のトラックが飛び込んでしまった。
弟は無事だったが身重の母は轢かれてしまった。外へ出て来た米兵はウイスキーの瓶を下げていた。明らかに飲酒運転であった。運転していた米兵は自分のやったことを認識し、自分の手で母を病院へ運ぶが誰の目にも重篤な状態であったのは明らかだった。少年は飲み食いのあとに家へ戻ったが、そこで母が危篤であることを知らされた。父を含めて全員が手術室の前で必死に祈った。しかし…。医師の口からは「胎児が無事生まれたことは奇跡でした」ということが告げられ、病室の母へそのことを告げると「よかった…」と、安堵して母は息を引き取ってしまう。少年にできることは自分の愚かな行動に対する後悔と亡くなった母へ謝ることだけだった…。


●母を喪った一家の玄関に来客の姿があった。米兵はきちんとした身なりで花を持参して謝罪する。だが少年は許さなかった。殺意を剥き出しにして米兵を刺そうと刃物を振りかざす。恐怖に襲われた米兵は逃げ出し、少年は追いかける。だが彼は父に制止された。事実上の支配者である米軍の兵士を支配される側の人間が殺してしまえば、たとえそれが未成年であったとしても極刑に処せられるということを十分に認識していたからだった。
「あいつは米軍が裁いてくれる」。平服を着た米兵が基地の外で犯罪を犯した者であっても当時の沖縄では米軍当局以外は手が出せない。だが今回の事件は軍の公務中での飲酒事故である。重大な軍規違反であるから「きっと重い罰が課せられる」と信じる以外に一家にできることはなかったのだ。悔みに集まっていた親戚たち(門中)は理不尽な出来事であるが故に余計に事故の後に酒浸りとなった父を叱責するのと「妻を喪って悲しくはないのか」と詰った。すると「女房を殺されて悔しくない奴がいるのか」と父は言い返す。そして重い過去を口にし始めた。

●1945年(昭和二十)の沖縄。昨年の絶対国防圏であるマリアナ諸島の喪失以降、日本の敗戦は決定的となった。しかし未だ軍部は「連合国に痛撃を与えてからのより有利な和平を」との姿勢に固執していた。その間にも戦局は悪化し続け、ついに日本本土の一部である沖縄に米軍が上陸して地上戦が始まった。日本軍は陣地を構築して迎撃したが、勝ち目のない戦闘で士気は下がっていた。その陣地の外では無数の沖縄の県民たちが安全な場所を求めてさまよってる。その中に若き日の少年の父母の姿もあった。若い夫婦の手には生まれたばかりの長男が抱かれていた。この子のためにも生きなければ…。二人は日本軍の陣地だと知って兵士に保護を求めた。日本兵は渋々ながらも避難民を受け入れた。だが、再び戦闘が始まると銃声に怯えた赤子の泣き声が陣中に響く。「敵に見つかるから殺せ」と兵士は命じた。父母がためらっていると日本兵は銃剣で赤子を刺し殺してしまった。「文句があるのなら出て行け」と兵士は言った。最愛の子供を味方であるはずの日本兵の手で殺された若い夫婦にできたのは亡骸を抱いて日本軍も米軍もいない場所へ逃げることだけだった。
この時二人は誓った。「できるだけたくさん子供を生もう。そして本当に平和な沖縄を作るんだ」と…。

●父母の悲し過ぎる過去を知った家族は声も出なかった。「戦争の臭いを拭き取ればまた新しい奴が来て撒き散らすだけだ」と父は叫び、手にしていた酒瓶を投げて叩き割った。その大きな眼は深い悲しみの涙で濡れていた。


●一つの生命が喪われたものの、母親の身を捧げた代償により一家に新しい一員が加わった。末弟の誕生である。しかし事故以来父は生気を失い、精魂を傾けていた闘牛も忘れて酒浸りとなっていた。少年は人が変わったように外へ働きに出ていた。母に代わって一家の面倒をみていたのは少年の妹だったが、生活苦はそのままだった。そんな中、少年は新聞の報道で事故を起こした米兵に「無罪判決」が下されたことを知る。激しい怒りは少年の正気を奪い、牛の背中に飛び乗って男のいる基地への突入を試みる。しかし警備の米兵に取り押さえられ、後を追った父に家へ連れ戻されてしまった。その夜、納得できない少年は弟と相談して裁判のやり直しを頼むために那覇の役所へ向かった。だがそこで男が既にベトナムへ送られたことを知らされた。それに「相手が沖縄にいなければ裁判はできない」ということも。役人は「どうせベトナムで苦しむんだから」と兄弟に同情はしたものの他人事としてしか扱わなかった。「アメリカは罰を与えないために戦場送りにしたんだ」。弟はそう口にしたが、それは何の慰めにもならなかった。それまでは違って沖縄の現実を痛感させられた少年は改めて米軍に対する怒りを増して自分たちの沖縄を取り戻す決意を固めた。

●その帰り道。少年は米兵を父に持つ少年と出会った。彼は車に乗り少年を探し回っていた。「サヨナラなんだよ…」。しかし米軍に対する怒りはもはや友情どころではなく、一方的に少年は友人に絶交を言い渡してしまった。その頑な態度に友人は顔をこわ張らせたが次の瞬間「パパがベトナムで死んだ」と口走り、涙がこぼれた。少年は友人の父とも面識があり、その際にベトナムの現実を聞かされたがその時は他人の戦争としか受け取っていなかった。ここで少年は、米兵も個人として戦争の犠牲者であることに始めて気が付いたのだった。そして本当の敵が戦争そのものとそれを命じている者たちであることも。二人は改めて友情を確認して、平和を心の底から求めうことを誓って握手する。「さよならは言わない。グッド・ラック(ごきげんよう)だ」。その言葉を口にしながら彼らは別れた。いつかきっと再会できることを信じて…。

●相変わらず父は腑抜けのようだった。妹と弟もそんな父に反感を顕わにし、「まじめに働いて」との涙の訴えも取り合おうとはしなかった。今や新しい大黒柱になった少年はついに怒りを爆発させ、今度は彼が父を殴ってしまった。だが父は怒ることもせず、逆に少年は「殴り返せ!」と父に迫った。拍子の抜けた子供たちはそれまでの生活苦を父に告げて父の返事を待った。父の返事は「タンスの中を見ろ」の一言だった。そこには3通の通帳があり、それぞれが大学へいけるだけの金額が書かれていた。それまでの父は基地の中の軍事工場で働いていたのだが、その仕事は爆弾の製造で戦争の片棒を担いでいることに嫌悪はしていた。しかし当時の沖縄では基地関係以外では満足に働ける所は無く、アジアの一国で行われている殺戮に間接的に参加していることに後ろめたさを感じていたのだった。それでも「今度ももう1冊作らねばな…」と口にした。子供たちを残して一人で飲みに出ようとしている父、それに亡き母の本当の思いを知った彼らは父の後を追い、「頭の悪い俺の分は弟に使ってくれ」と気持ちよく見送ったのだった。


●子供たちが自分を許してくれたことに喜んだ父は飲み屋で上機嫌だった。だが一組の新たな客がその気分を台無しにしてしまう。一人は米軍関連の仕事を請け負って財を成した成金で、もう一人はその運転手兼用心棒だった。成金は闘牛の名人である父の牛に惚れ込んでいて顔を合わせるごとに「譲ってくれ」としつこく頼み続けていた。しかし汚れた仮名を手にする人間を心の底から憎んでいる父はまともに相手にしなかった。用心棒はその態度に腹を立てて襲い掛かるが、琉球空手の達人でもある父は逆に用心棒を叩きのめした。しかし相手が戦意を失うと飲み直すために相手に背を向けてしまった。次の瞬間。鋭い痛みが背中に起こる。用心棒がナイフで刺したのだった。

父は病院へ運ばれたが幸い生命に異常はなかった。慌てて駆け付けた子供たちは安心して父を労う言葉をかけた。父はふとんを被りその中で涙した。一時は離散しかけた家族の絆が再び取り戻せたのであった。


●父は退院して再び元の生活へ戻った…はずだった。しかしある出来事が寝ていた一家を襲う。それまでに聞いたことのない爆発音が響いたのだった。慌てて飛び起きた父は闇の中で火の手が上がっている基地の方を見て「どこかの国が基地を攻撃したんだ」と言う。少年は外の様子を見に行ったが、そこで目にしたのは燃え上がるB52爆撃機の姿だった。北爆に出撃する際に離陸に失敗したのである。消火作業は続いていたが誘爆は続いていて、少年の足元にも何かが降ってきた。それは投下される爆弾の内容物で音もなく溶けていった。その光景を見て少年は恐怖に襲われる。そこへ警備兵が現れて銃剣を突きつけて少年は追い払われた。



●同じ日の夕刻。テレビでは内地の秋の行楽の光景が映されていた。その平穏さに対し、米軍の管理下の沖縄ではB52墜落事件が重く影を落としていた。「あの爆発がもし(あるとされていた)核爆弾だったら…」。少年の一家は現実に起こった広島と長崎の惨劇の光景がよみがえり、恐怖で身が凍った。そして父は「やるぞ。俺はもう一度闘牛に心身を捧げてやる」と口にし、世話をしている愛牛を彼らの希望に満ちた名前に変えて決意した。新たな出発である。


●その日は闘牛大会の決勝日だった。父は刺された傷が原因で体調が悪く、医師からは出場を止められていた。だが父は諦めきれない。そこで少年は父の代わりに大会へ出ることを決意する。「お前ではまだ無理だ」。父の心配をよそに少年は出場を強行した。その途中、例の成金の乗る車と出会う。用心棒は「お前のせいで警察に留置された」と筋違いの怒りを父に向けた。父は唾を吐きかけて返答した。激怒する用心棒を成金は制して再び父へ牛を譲る話をする。だが当然一家は取り合わない。「それじゃ会場でな」。諦めた成金は去った。あんな奴に負けられるか。少年と父は牛を操る手綱を強く握り、決意を固めるのだった。


●少年と名前を変えられた愛牛は最後の試合へ進む。相手はあの成金の自慢の強豪。この絶好の取り組みに観客は湧いた。少年は父の技を横から見ていて知らず知らずのうちに覚え、横綱の名に恥じない牛を器用に手繰った。だが相手も勝ち残っただけに手強かった。人格は劣っていても成金も闘牛を愛する心は本物だったのだ。二つの力溢れる肉と骨の芸術品は一進一退を続ける。まさに互角だった。「負けられるか」。愛牛の死闘を間近にして少年はそう思った。そしてついに勝機が。相手の一瞬の動きの隙をついて少年の方が勝った。父も、弟も、妹も、赤子も歓喜した。そこへ敗者である成金が現れ「次はこうはいかないぞ」とだけ告げて姿を消した。憎い相手ではあってもどこかその後姿は寂しげに少年には見えた。



●沖縄では相変わらず米軍の圧政が続いていた。沖縄住民たちは抗議の意志を見せるためのデモを行い、基地のゲートに集結していた。その中には少年の姿も在った。警備兵たちはいつものように銃剣をちらつかせて睨み合いは続いていた。緊張が広がる。そこへのどかな唄声が聞こえて来た。聞き知った父のうなる沖縄民謡だった。父は自慢の牛を連れていた。家族の姿も。思わむ珍客の登場に米兵たちは一瞬ひるんだが、再び銃剣を父へ向けて威嚇する。だが、かつて日米の両軍に家族を殺された父は米兵に対して敵意を持っていないことを示した。日本語を理解できない米兵たちもそれは悟ったのだが、矛を元に戻すことはなくただ「カエレ!」と告げた。それでも父は平和裏に基地を畳んで沖縄から、日本から、引いてはアジアから撤兵してくれまいかと心の底から説得を試みた。だが米兵たちの態度は変わらなかった。


●家路の足取りは重かった。誠意を尽くしても無駄だったことを父は悟り、涙する。それに対して少年は「たとえ今は駄目でも親父の志は俺が引き継ぐ」と言い、「俺が駄目なら次はお前らだ」と弟たちへ告げる。皆、頷く。
その彼らの頭上を再び北爆へ向かう飛行機が通り過ぎる。別のB52だった。ここ沖縄ではありふれた光景。この戦争はいつまで続くのであろうか…。