利用者ブログ



 またまた間隔が空いてしまいましたね。申し訳ないです。私たちイメージリンク(IML)もさまざまな事業を行っていて、しばらくは別の案件に集中して行っていましたので、このブログの更新も止まっていました。決して忘れていたわけではありませんが、後回しになったことを反省しています。ですので、お忘れのないように重ねてお願いします。
さて、それはそれとして心待ち死にしていた桜の季節もとっくに過去となり、梅雨も終わって夏本番へ。ですので今回は視線を近くに移した記事を書いてみることにしましょう。これからもIMLをよろしくお願いします。


◆読み札:ちかくならゆっくりあるいてみようかな

文明の利器は本当に便利です。自らの脚頼りだった時代はせいぜい一日数十キロが上限だった時代から考えてみると、本当に夢のような時代になりました。椅子に座っているだけで、数百キロ、いえ数千キロ単位の移動が可能なのですから。浮いた時間をより有効に使えるようになって私たちの生活はそれだけ幅が広がりました。
しかし、その反面…。新幹線で移動する際に、車窓から眺める風景も余裕を持って見る機会も減った気がしてくるのですね。「鈍行」と揶揄された普通列車を利用した長距離の鉄道旅の時には、河川の名前を記した看板をゆっくりと見ることもできて、手元の小時刻表の地図、それさえ無い時には頭の中の頼りない地図を利用して、目的地までの距離と残り時間を換算して無聊を慰める、ということもできたのですが。時速数百キロという効率最優先の旅行ではもはや人間の限られた視力では肉眼で確かめることは難しくなり、機器を利用してスロー再生に頼るというのは興醒めされる方も多いでしょう。


飛行機に乗って離陸する時には、非日常の入り口に入れる興奮を感じられても、とても小さい窓から見える地上の景色は判別しづらくて現在飛んでる場所もイメージしづらく、地上よりはむしろ変化に富んだ空中の雲海の方へ知らぬ間に視線が移っていた…という経験がありませんか?


鉄道も自動車も、近距離移動に便利な自転車も利用せずにたまには一駅くらいの距離を往復してみましょうよ。文明の利器を利用すれば長くても十分程度の時間の距離でも、汗を流しながら歩いてみれるとなかなかどうして結構な距離だということに気付くはずですね。自分の目の高さで改めて周囲を見回せば、普段見落としがちな風景が見えてくるのです。もちろん過去の情景も重なります。マンションの数がやたらに増えて、舗装された道の幅も変わり、当たり前だった光景が走馬灯のように現実の姿とダブって見えて、刻の流れを実感する。そしていつもは視線に入らない道端の雑草でさえも、その緑の色の濃さに気付くもの。見知らぬ民家の軒先の名も知らぬ小さな花。地味にしか見えない小鳥の小さな翼にも個性的な模様が浮かんでいることも。
消えてしまった商店。無くなった自販機。形も色も変わってしまった郵便ポスト。当たり前のように並んでいた公衆電話の色も。歩いてみて目に入る風景はこんなにも鮮やかに見えるのですね。スピード自慢の移動手段ではその全てが流れる風景となり、混ざり合って個々の識別が出来ていなかったんだなあ。私は多くのことを忘れていたような…。と、今さらながら気付いても落ち込む必要はありませんよ。



「気付く幸せもあるんだ」。そう思い直すことで失ったことと忘れていたことに感謝ができるのですね。全てを持ち続けることはできない、と決意して物事に当たれば人はそれだけ成長した証しとなるのです。善き思い出だけを抱いて新しい風景に飛び込む。
歩くスピードならそれがより安全にできる、というのもありがたいことですよ。たまにはゆっくりと歩いてみましょうよ。そうですよ、ねっ!


◆伝統的ないろはカルタ:ぢごくのさたもかねしだい


「地獄の沙汰も金次第」


現実的な話となり、これも申し訳ないですね。江戸の「ちりも積もれば山となる」よりも上方共通のこちらの方が書くことが多いというのも理由の一つなのですが。しかし、さすがは関西人!。何代か前のご先祖様たちから受け継いだ経済感覚は下世話な点でもしっかりと活かされているということにしましょう、かねぇ…。建前を重んずる武士社会の中心地だったお江戸と、公家と商人が中心だった上方とではこうも違うもんなんだよなぁ。こういう文化の差異も確かに土地柄に反映されるということもしっかりと認識してもらいたいものです。
あ、忘れていましたが、語句の説明は特には不要ですよね。金次第でほとんどのことはなんとでもなる、ということ。でも一歩進んで考えれば、「金は使う時には惜しまず」、ということも忘れないようにしましょう。天下の台所であった大坂で名を成した大商人たちも普段は吝嗇に徹していました。そうしなければ天まで届くほどの財(決して誇張ではないのです)を築き上げることは不可能でした。



それでも世の中で必要とされる橋などの公共施設の建設には公に頼らずに民の力で解決したのが伝統となっていました。地名などにその名残が残されているのでご理解できるでしょう。ネガティブな響きを持つ言葉もこういう風に考えを変えたら一転してポジティブへ。さあ、実利一辺倒だと思われがちな関西の誤解をこうやって解き放とうではありませんか。伝統の底力に感謝、です。


◆通話表:ちどりの「ち」(千鳥の、ち)

古典の授業で習ったかも。というような言葉ですね。正直、古い表現です。通話表の真価は正しく相手方に目的の音を伝えることなので、似た発音を重ねてはいけません。ですので古風ではあっても選ばれたのには明確な理由があったということです。調べてみると…「チドリ」という鳥が存在します。けれど、伝統的な意味では水辺にたむろしていた小鳥の総称のようです。大雑把なようでも、こういう美しい響きを用いて、その他大勢の鳥の世界、と済ませないのは日本人の美意識なのでしょう。文学作品にも多く登場するのですが、兵庫の私たちにもなじみの深い句をここで。


 「淡路島/通ふ千鳥の/鳴く声に/幾夜寝覚めぬ/須磨の関守」


ここからは微妙な話となります。「鳥」と「島」の漢字は見た目が似ているので「ちしまのち」と誤読されることもあるでしょう。政治的な話は本来の目的ではありませんから省略しますが、この千島の一帯には見た目がペンギンに似た愛らしい「エトピリカ」というが生息しています。この仲間の鳥はお互いに似ていることが多いので混同してしまいそうですが、彼らも「千鳥」だと言えるでしょう。「千島の千鳥」。厳しい生活環境の中でもたくましく生きている彼らのことをこういうことで思い出していただけたら嬉しいですよ。本当に彼らはかわいいので興味を持たれたら検索してみてください。ぬいぐるみなどではなく生きた鳥だということもお忘れなく。
いい話風でお終いにしたら話にまとまりがなくなりますから、少々痛い言葉で締めとしましょう。もちろん警鐘を込めていますよ。


 「現代では ちはチキンのちなのかな 令和の日本」


食生活の変化だけではありませんよ。恐怖で全身鳥肌になることがあっても、怖気づかずに生きなければならない。それを克服して臆病者(チキン)を脱する契機とするのだ。なかなかに意味深長な言葉ですよね。真剣に考えて欲しいです。


◆「ん」尽くし:ちんもくはきん、ゆうべんはぎん


音が音ですので、重ねて書けば良からぬ方向へ流れてしまいそうです。ですので慎重に筆を進めなけば…と。
「ちんぷんかんぷん」。まず誰しもが考えるこれではお話になりません。では…。「ちんどんや」。まあ論外ですよね。「賃金論争」という造語では石が飛んで来そうですし。「鎮魂歌」。実はこれが第一候補でしたが、暗い話はどうも苦手ですね。もう少し考えますかね。
「沈黙は金、雄弁は銀」。うん、これで決まりですね。字面も良し。これで完了です。…え、逆じゃないかって?。本当はそうみたいですが、これはこれで間違いではないようなので。浅はかな意味の無い言葉で飾り立てるよりも、徹頭徹尾口をつぐむ。これは理想ですよね。べらべらべらべら。口の軽い人はそれだけあざけりの対象になることを自覚すべきですね。「それはお前じゃ!」と、いう言葉が聞こえる前に退散しましょう。潮時を見るのも世渡りに必須ですので。


「態度で示せば 重さが見えるよ それが沈黙」


◆今日のひとこと:


「『ちえ』という 言葉の『ち』の字 奥深し」


「知」と「智」ですね。決して「痴穢」(悪意からではなく警句としての造語ですので誤解を持たれないように)などではありませんので。『国語辞典』を紐解くと同音異義の言葉の多さに驚かされます。言葉によっては判断に苦しむことも。例としては音が違いますが、「異常」と「異状」を挙げたくなります。ほぼ同義ではあるものの微妙に異なる。まあこんな感じですか。


「ち」という音で表せる漢字は特にそれぞれが持つ意味の幅が大きいのもと特色だと思うのですが。「智」と「痴」。まるっきり反対です。漢字は奥深いですねえ。音が一緒で入っている字も共通するというのに。OA機器の整備が進み、人間の脳の働きの代わりを務めてくれる人工知能(AI)の発達は驚異的に加速しています。性能が上がるのはありがたいですけど、造語まで考えたら前述のような身震いするようなめちゃくちゃな言葉が出現しないとは限らないのです。皆さんも「ちえ」の工夫を続けてキーを叩いてください。言葉のありがたさがわかりますので。では、またお会いしましょう。