利用者ブログ - シリーズ:平和を考える 


幕末の開国まで、日本は事実上世界を識ることをしませんでした。その結果、幕末に一気にツケが回り、勢力の伸長を図る西欧列強との軋轢が生じて大きな国難として未曽有の国難が押し寄せたのです。しかし代々の権力者たちも完全な無為無策で通したわけではありませんでした。その世界を知るための遠眼鏡のレンズとしての役割を果たした街が設けられたのです。それが長崎でした。

≪日本の中での長崎の立ち位置≫

長崎。エキゾチックな響きを持っています。他の日本の多くの都市とは一味違う魅力を街のそこここで感じることができるのですから。異国情緒溢れる港町としては他にも横浜や神戸、函館、門司などが挙げられます。けれどここ長崎がそれらの港町と違うのは歴史の長さという点です。大陸に近いという地の利を活かして、鎖国以前から活発に海外との交易が続けられていましたから。ただ、その玄関口は平戸の周辺で、最初はポルトガル、後にオランダとの交易に使われた日本初の人工島である出島が整備されたのは江戸時代に入ってからでした。

街のハイカラさは自由な気風を連想させますが、身分制度に基づいた鎖国下での現実は外国人、特にオランダ人と日本人の接触は厳しく制限されていて、彼らが街中を自由に闊歩できるということはありませんでした。滞在が許されたオランダ人たちは原則出島の中での生活を強いられ、公使としての江戸の将軍への謁見は除き、祭礼などの特例のみ制限付きで長崎で行われる行事に参加できたようです。昔から付き合いがあった中国はともかく、日本唯一の公式な港町がゆえの進歩的な気風で知られる長崎においてさえも、風俗が全く異なる彼らに対する興味はとても大きくて風俗画などを含めて多くの文物が残されました。
それはともかく、人間であるという点は洋の東西は無関係で、日本側からも特定の人々はオランダ人たちとの接触が許されていました。オランダの商館には専門の医師なども含まれていましたが、管理全般を任された役人、代々の家業として受け継がれた通辞(通訳)、門番、身辺の世話を行う使用人、生活必要品を扱う商人、清掃人、それに遊女などが出島への出入りをしていました。密貿易は厳禁でしたので毎回厳しい検査が行われたそうです。

海外との接点ではあるものの、文化の伝播はともかく積極的な交流が行われなかったのも、交流下手な日本人の伝統が始まっていたのかもしれませんね。それでいても長崎は文化の取り入れ口としての機能を果たし続ける貴重な場所でした。まさしく文明を覗く遠眼鏡の接眼点だったのですね。

≪知られざる貿易と蘭学、宗教の実態≫

今日では鎖国下における貿易の窓口がこの長崎以外にも複数存在したことが知られています。今回のテーマは長崎ですので他は省略しますが、その当時の貿易に関しては大幅な入超が続き、貴重な銀の流失によってたびたび制限がかかるなどの問題があったものの、優れた西欧の科学技術に憧れを抱く医学を中心とした学究の徒にとっては長崎は聖地とされました。現在では放送される機会も減りましたが、テレビの時代劇や映画などで蘭学を志す青年が長崎への遊学を扱うことが多くあったのはご存知でしょう。事実、高名なシーボルトが設置した鳴滝塾は多くの日本人が学ぶ機会を与えられ、高野長英をはじめとする人材を輩出しました。

科学技術には主義主張は存在せず、根源は同一です。しかし内容を記述した教本は日本語訳の物はほとんど無く、外国語の知識が無ければ原典を読み解くことはできませんでした。言うまでもなくそれは大きな障壁でした。わずかな人数の翻訳者の手を経なければそれすらも手に入れることはできません。漢籍はともかく未知に等しい西欧の言語が相手ではその内容を知るための苦労は並大抵ではなかったはずです(『解体新書』の翻訳は特に有名なエピソードである)。蘭学ひいては洋学は長崎だけではなく江戸や大坂などでも学べるようになりましたが、日本の近代化がここ長崎から始まったのは歴史の上での重要なポイントなのです。
江戸時代も時が経過するにつれて科学技術に対する需要が増し、幕府の方針で洋書の輸入量の増加が認められるようになりました。ただし、キリスト教の禁教は相変わらずに厳しいままでした。禁教の象徴としては踏み絵などが知られていますが、宗門改という江戸時代の制度は日本の宗教界を歪にさせて今日においても日本人の宗教観に影響を及ぼしているのです。言うまでもなくそれは長崎においては特に顕著でした。

現在でも長崎県はキリスト教徒が多い土地柄ですが、禁教が解かれてからも教会へは戻らず、江戸時代を通じて独自の秘儀を貫いた信仰を持ち続ける人々が相当数居られるのです。これは閉鎖された中での隠れた信仰ですので無理もないことでしょう。このように閉ざされた伝統による信教は複雑に形を変えても受け継がれていることは「隠れキリシタン」と呼ばれた先祖の方々への篤い愛情が含まれているのですね。

幕末になり、開国によって長年禁じられたキリスト教が解禁された。これもありがちな誤解です。明治政府もキリスト教の禁教を当初は続けていたのです。要するにキリスト教は日本の為政者側からは嫌われて続け、近代国家の条件である「信教の自由」は簡単には広がらなかったのです。キリスト教は外国人にのみ許された形であり、日本人が教会へ接することは禁じられたままでした。
それでも心ある日本人信者が危険を冒して自らの信仰のために教会へ足を踏み入れる日がついに訪れたのです。
これは西欧にとっては「日本人信者の再発見」でもありました。悪王による不当な宗教弾圧によって神の下では兄弟たる日本の民が虐殺されて絶滅した、と信じられていたからです。神を信じる心は、数百年の時の隔たりを越えてこうして再び洋の東西を問わずに同じ価値観として堅く手を結び合いました。神の前ではもはや為政者の都合など意味を持たないもとになっていたのです。こうして西欧諸国の意向も手伝って、ついに日本でもキリスト教が再び認められるようになりました。
ここ長崎は現在でも教会が多い土地柄ですが、こういう点でも日本の近代化に手を化していたことになります。これからが現在までの長崎につながることになるのです。

≪近代化への道どりは苦難続き≫

紆余曲折を経て、ようやく日本も再び世界とのつながりを取り戻すことができました。しかし、長きにわたって国を閉ざしていた弊害はあちこちで深刻な問題を引き起こしました。まずは科学技術の遅れです。日本の近代化はまずは医学から始まったのは先述した通りです。開国は新たな文化や技術をもたらしましたが、負の一面をも伴いました。伝染病の蔓延でした。特にコレラは猛威を振るい、夥しい数の罹患者を出して人々を苦しめたのです。日本人の特質は、主義や主張にこだわらずに善きことは理屈抜きに積極的に取り入れたことです。東洋医学では対処できない厄介な疫病も、必要に迫られて急速に整っていった医学界の尽力によってその多くを克服することができたのは大きな功績でした。

意外に知られていないことですが、日本には「和算」という独自の数学が根付いていて、数学的な素養が培われていたのは幸いでした。さらには識字率の高さもありました。こういう歴史の上では積極的に語られない数々の知られざる要素によって日本の近代化はなされてゆきました。「文明開化」はお雇い外国人たちの指導によって始められたのは間違いのないことです。でも種を蒔いただけでは果実は結実しません。

明治政府は深刻な財政難に陥っていたので、高額な報酬を支払って招聘した外国人たちを長期雇用することができませんでした。彼らに教わる日本の生徒たちはその短い期間で貪欲に技術と知識を習得したのは優秀な人物を選抜した結果だったのです。最初は俸給のみに惹かれてよく知らない東洋の小国へはるばるやって来た西洋人は大いなる偏見を抱いていたことでしょう。しかし彼らの予想に反して日本人はよく学び、人種を越えた信頼を築くことができました。そして直接の教えを受けた世代が次の世代を教育し、以降はほぼ独力で国の近代を成功させました。日本国内で金融制度が独自に発展していたこともあり、産業の育成には外国の資本頼りではなかったことも、まずは官営の資本で起業し、事業が軌道に乗れば民営に転換したことも現実的な選択でした。産業立国・日本の原点はここから始まったのですね。

明治政府は「富国強兵」というスローガンを掲げて、世界中に進出した西欧列強の支配下に組み入れられないことを目指しました。武力がものを言った弱肉強食の非情な時代でしたのでこれは現実的な方法ではありました。しかし基本が農業であり、地下資源にも恵まれなかった日本はその意気込みとは裏腹にその足取りは順調とは言えませんでした。それでも近代化への象徴的な事業として重工業へも取り組みました。長崎には幕府が設置した海軍伝習所(海軍士官育成機関)が置かれ、その付属として後に造船所へ発展する修理施設も開設されていました。長崎は大陸に近く、地の利も考慮されたのでしょう。ただし伝習所が短期で閉鎖されたのに対し、その施設は姿を変えながら今日でも存在しています。長崎造船所です。私たちの神戸に所在する造船所と並んで、現在の海上自衛隊に至るまで多くの船舶、特に艦艇を作り出したことでも有名です。

文化のみならずに産業でも長崎はこのように貢献しました。長崎にとって幸いだったのは、海軍基地としての役割を担わされなかった点にもあるでしょう。海軍の西への備えは同県内の佐世保が選ばれました。もちろん軍備も一朝一夕にして果たせるはずはないのですが、基地としてではなくても長崎が大きな働きを遂げたことは間違いないでしょう。

明治の日本の改革は時期によって明確に方針が異なっていました。まず武家政権を倒して、現実的な政策として藩閥政府を成立させる。次いで諸制度を確立させて官僚による中央集権化を進める。そして軍事と産業を発展させ、海外にも勢力を伸長させる。その評価についてはここでは扱いませんが、こういう経緯を経て日本は発展してゆきました。
そしてこの長崎は戦争と平和、好景気と不景気を経験して「運命の時代」を迎えるのです。

≪戦争の試練を克服して≫

太平洋戦争で日本は敗れました。相次ぐ敗北で戦局は悪化し続け、被害は増すばかりでしたが、軍部は連合軍から通告された「無条件降伏」を受け入れず絶望的な戦いは続けられたのです。そして二度の悲劇が日本を襲いました。言うまでもない、広島と長崎への原爆投下でした。これは新しい戦争の時代の始まりでもありました。完全に結果が分かる、大量殺戮と破壊を伴う手段が確立されたのです。それと同時に大陸では新たな敵軍が加わり、明治の中頃から築き上げた日本による歪な秩序は崩壊しました。さしもの軍部もこれらの厳し過ぎる現実の前にはついに抗え切れず、降伏の道を選択しました。

長崎は外国からの文化が根強く残る、異国情緒溢れる魅力的な都市です。それは教会の数の多さ、キリスト教徒の多さ、そして外国人の多さによるところも大きいのです。その美しき街が一発の爆弾により壊滅的な被害を受けました。もちろん教会も例外ではありませんでした。神の国の到来を約束するはずの宗教を象徴する建物が、同じ価値観を持つ国によって破壊された。キリスト教にも多くの宗派があり、複雑な歴史を築いてきた事実があるにせよ、原爆使用は人類の最大級の悲劇であることは疑いようがありません。

実は長崎は当初の二番目の目標ではありませんでした。第一目標の都市の上空の天候が悪く目標が変えられたとのことです。もし、長崎の上空も悪天候で目標とされた地点の判別が不可能だったら…。再度の原爆投下は見送られたかもしれません。しかし現実は残酷でした。
二度目の原爆が美しい長崎の上空で炸裂しました。その結果は…。数字で表す必要が無いほどの壊滅的な被害が出たことは改めて記す必要は無いでしょう。

二つの原爆の被害者には連合軍側の捕虜も含まれています。敵も味方も判別されずに死へと追い遣らる。もう少し戦争の終結が早ければ…。こういう点でも戦争の悲劇は存在するのです。
原爆の三度目の実戦での使用はされず、多くの犠牲を出した戦争は終わりました。日本は戦後奇跡的な復興を成し遂げ、平和国家へと変貌を遂げることができました。
長崎も広島も原爆の惨禍を克服して緑の多い都市となり、再建を果たしました。それは素晴らしいことです。しかし。80年近い時を経た今日においてもあの悲劇に見舞われた人々が苦しんでいることも忘れてはいけません。
私たちにできるのは戦争の惨禍を繰り返さないこと。そして亡くなった人、現在でも苦しめられている人のことをわすれてはいけないということです。これが世界中に拡がれば、核放棄ということにもつながるのです。

≪長崎のシンボル≫

長崎で一番の観光地は「グラバー園」でしょう。対岸の造船所の眺めが素晴らしい場所です。ここのかつての主は名前に由来する人物ですが、幕末の軍事に深く関わり財をなした人物でした。ここも一時期は造船所の所有だった時期がありました。これは世界最大の戦艦が建造される際に、防諜のためにそうされたそうです。美しい庭園で知られる観光地にそういう歴史がある、というのも興味深いことです。グラバーには闇の部分がありました。日本の近代化における過程では彼の存在は必要だった、とは言えるでしょう。グラバーが関わらなくても誰かが代わりに同じ役割を果たしていたに違いないですから。一つの物事に関しても様々な見方ででき、単純に判断することは軽率だとさえ言えるのが現代の価値観になりつつあるように思えてなりません。

この素晴らしい観光地のすぐ下に「大浦天主堂」が在ります。国宝であり、世界文化遺産にも選ばれた日本を代表する西欧建築です(建築後百年を経てないで国宝に指定されたこと自体が異例であり、同種の国宝は他には迎賓館(赤坂離宮)のみ)。
ここはカトリック教会であると同時に長崎の歴史を語る博物館でもあり、高名な観光地でもあります。ここは先述した日本人信徒の発見の場でもあり、豊臣秀吉の禁教令によって処刑された聖人たちを弔う目的で建てられた聖地として有名なのです。
長崎はご当地ソングが非常に多いことでも知られています。それらの歌の中で「教会の鐘」というキーワードで長崎を連想することも多いことでしょう。短くて美しいこの言葉には実は多くの意味が含まれているのです。観光地のイメージとしてのシンボル。故・永井博士の著書。グラバー邸や大浦天主堂とは違って、原爆の爆風で破壊され尽くした浦上天主堂。そして奇跡的に残された同教会の鐘。最後に歌謡曲として…。
単に原爆の被害者への鎮魂としてのみならずに、多くの事柄を知って改めて想起し直すと、見慣れた風景の中にも新しい場面が見えてくるような気がするのです。こういう点に気づけば、さらに多くの発見につながるのではないでしょうか。


≪祈ることを繋げて平和を保とう≫

象徴的な言葉として「鐘の音」を選んで今回のテーマとしました。長崎という土地柄にあっては、カトリック教会の荘厳な鐘の音を今日でも聴くことができます。しかし、その長崎でも開国以前には鐘の音は仏教寺院からも響いていたのでした。刻を告げる役割がほぼ失われた現在では多くの寺では除夜の鐘くらいでしかその音を愛でる機会は無いみたいです。何度も登場している大浦天主堂からも時間を定めて鐘が打ち鳴らされ、それを現地で聴かれた方も多いでしょう。今度長崎へ行かれる機会に恵まれ、さらに善き運に恵まれたなら、天主堂の鐘に交じって近くの寺院からも鐘の音が響いているということに気づいてもらいたいのです。宗教や信条を越えて、祈る、ということにも目をむけてもらえる契機になれば幸いだと思っていますから。

今回も長い文章になりました。その意図するところは、多くのことを知ればさらにそれが深まるのだ、と、いうことを強調したかったこともあるのです。
亡くなった人の冥福のために祈る。それから来るべき未来のためにも。それを続ければより善い世界へ導びけることと信じて続けることです。それを私たちの義務として次の世代へも善き伝統として繋げれば再び戦争の惨禍が訪れることは無くなるはずです。人類の良心を信じましょう!。