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赤穂は兵庫県の最西部にある小さな都市です。昔から名物である塩の名産地として知られていますが、一番有名なのは一連の「元禄赤穂事件」に関連して世に知られた「赤穂義士」でしょう。現在でもJR赤穂駅の駅前広場には義士たちの中心人物であった「大石良雄」(おおいし・よしお(内蔵助))の像が置かれていて、芝居や映画でおなじみの討ち入り装束の姿で訪れる人たちを温かく迎えてくれています。
徳川の天下が始まって既に百年余。武士の本分がもはや形骸化していて、武官から官僚と化していた時代に突如起こった武士たちの、将軍様のお膝元で起こした騒動。多くの武士の世の矛盾と不条理を飲み込んで生命を賭して己たちの存在価値を世に問うた彼らの義挙を、三百年を経た今日でも赤穂の人たちは誇りとしているのです。
今回はその赤穂の土地を紹介させていただきます。

≪豊かな赤穂の地とその悲劇≫

「赤穂事件」が起こったのは現在でも華やかな代名詞としても使われる「元禄」の世でした。当時の将軍であった第五代の徳川綱吉(とくがわ・つなよし)は父である第三代の家光(いえみつ)から続く「徳川の全盛期」の主君として君臨していました。長かった戦国の世に培われた荒ぶる気性は既に過去の遺物として忘れ去られて、先述したように武士は官僚化していて「武」の本質はとうに形骸化していました。


「武士とは治に在りて乱を忘れず、密かに技を磨くもの」。この本質はもう精神主義にすり替わり、多くの武士にとって武術はほとんど「スポーツ化」していたのです。人間とは本来怠惰であり、必要性が伴わなければ特に志でも持ち合わせなければ、口実を見つけて回避しようと忌避する傾向が強いことを考えれば、それも仕方ないのかもしれませんね。殺生が忌み嫌われるのは仏教等の影響もありますが、武士の存在とその意味は様々な矛盾が絡んでしまい、「武士道」という武断政治を支えた過酷で酷薄な概念は非情であり複雑で難解な要素で成り立っていたのです。その武士の世の不条理の代表例のこの一つがこの赤穂事件でした。

今回は事件そのものはテーマではないので詳細は省きますが、こう前書きしておけばこの時代の理解度は深まることでしょう。


事件の一方の当事者たちの故郷である赤穂の地はその地の利を活かしての製塩業が盛んであり、昭和の中期まで塩田が操業していて利益を生み出していました。当時の赤穂藩は石高が五万石代の小藩でしたが、それには不釣り合いのような居城を構えていました。徳川氏の天下が定まった「元和偃武」(げんなえんぶ)以降に新築が認められた稀な例であり、結局は建築はされなかったものの小型の天守台(現存)が設けられてた本格的な城郭であり、特異な例ではありました。赤穂藩の財政は裕福とは言えなかったようですが、当時の各藩は総じて財政が逼迫していたので、少なくとそれ以下ではなかったようです。



それはともかく、播磨は大消費地である上方(京・大坂)に近く、海岸線を持つ赤穂は商人たちが往来する港でも賑わっていましたから、「豊かな土地柄」であったのは間違いありません。

そのうららかな瀬戸内の城下町に寝耳に水の報せがもたらされたのです。大事件の発生でした。


≪無血開城までとその後≫


前置きしましたが、討ち入り等の事柄についてはここでは扱いません。拙い表現で文字を重ねても新しい発見の要素など皆無ですからね。一連の「赤穂事件」ではあっても、主たる舞台は花のお江戸であり、ここ赤穂が大きく取り扱われるのは「無血開城」の前後のみなのです。
大石はこの混乱を見事に導き治め、一小藩の無名の家老から一躍「時の人」となりました。彼の優れた点は徹底した現実主義にありました。「公儀の出方を見極めて、これからを決める」。激越に復讐を叫ぶ輩は一応は宥めすかして時間を稼ぎ、見切りを付けて土地を離れる者には残留を強制しない。改易にうろたえる領民たちを宣撫する。商人たちには可能な限り誠実に対応する等々。


この手腕を買われて浪人となった後も、多くの仕官の誘いがありました。もし大石の霊(みたま)が現代の人たちに直接言葉をかけることができたのなら「歴史で都合のよいように持ち上げらずに、平穏に人生を終わらせたかった」との言葉が語られるように思えてなりません。大石は確かに優れた指導者ではあったものの、決して特別な人間ではなかったからです。
小さな混乱はあったにせよ、無事に城の明け渡しは終わり、事件での赤穂の登場場面は終わりを告げました。現在の会社清算と同じように残された金品の分配が元・藩士たちに行われると、意を決した一部を残してこの武士集団は雲散霧消しました。一団を率いることとなる大石も家族と共に赤穂を離れ、二度と戻ることはなかったのです。



赤穂事件について赤穂における記述は以上ですが、現在でも赤穂市内には義士に関する様々な縁(ゆかり)の物が残されていて、観光客が多く訪れて三百年前のあの時代に思いを巡らせているのです。


≪義士の地を訪ねて≫


赤穂の地を紹介するには、まずは義士に縁のある所から。
まずは「赤穂城跡」から。討ち入りが行われた12月14日には東京をはじめ、大石らの縁の各地で大小様々なイベントが行われていて、彼らの故郷であるこの赤穂でも盛大に「義士祭」が行われています。大手門から装束に身を固めた義士に扮する有志たちの姿でおなじみですよね。城跡内には大石邸の長屋門も残されています。残念なことに邸宅自体は失火で失われていますが、残されたこの門は大石を偲ぶ数少ない建築物として残されているので価値は大木ですよね。他の義士たちの家屋も復元されています。
明治維新意向はこの特徴的な城郭も前時代の遺物として破却され、残された部分も他の多く城と同様に荒廃し、学校や民家に畑まで作られて、その存在が忘れ去られていた時代がありました。



現在では歴史的価値が認められて年を追うごとに整備の手が加えられ、往時の姿を取り戻しつつあるのです。幻の天守を櫓を組んで電灯でその姿を復元するイベントが行われてたこともありました。完全整備まではまだ時間が必要でしょうけど、優美な姿が戻ること二期待して気長に待つことにしましょうか。


次は「赤穂大石神社」です。ここも城跡内に在ります。創建は大正初年ですので、百年余の歴史があります。『忠臣蔵』は芝居等で重要な演目であるため、大石内蔵助の大役を務める大物俳優が興行の無事を祈って関係者と共に訪れることでも有名です。境内には義士たちの遺品等を展示する義がああり、義士たちの遺品や木造等の貴重な資料を展示しています。近年には参道横に義士の石造も並べられて、義挙の様子が窺えるようになったのは楽しいことですよね。大石神社はほぼ毎月様々な行事が行われ、赤穂は言うに及ばず県の内外からも多くの参拝者が訪れる神域なのです。

次は「花岳寺」へ参ります。創建は初代城主であった浅野長直(あさの・ながなお)の手により当初は「華嶽寺」であり、以降歴代の城主である永井・森の両家の菩提寺でもありました。義挙の後に切腹を命じられた義士たちの墓の他に、浅野長直(ながのり(内匠頭))の墓も建てられています。ここにも歴史資料館が設けられ、遺品等を展示しています。花岳寺は「新西国三十三箇所」にも加わっていて、多くの参拝者が訪れているのです。本堂の天井には墨一色で描かれた虎の絵が迎えてくれます。実物の猛々しさが感じられないほのぼのとしたその姿も訪れたならば見てもらいたいですね。

最後は「赤穂岬」です。ここは駅からも周辺の義士縁の場所からもかなり離れているので、駅からのバスか車で訪れるのが便利です。ここは「赤穂温泉」でも知られていて名物料理を振舞ってくれるホテルや旅館が建ち並んでいて宿泊等にはとても便利ですね。ここの最大のポイントは絶景です。播磨灘に家島諸島。それと小豆島を眺められる絶景で知られているのです。春は満開の桜が迎えてくれ、他の季節もそれぞれの美しさを呈してる観光スポットなのですよ。家島諸島はかつて蚊取り線香の原料であるジョチュウギクが特産だったそうで、開花の頃は白いその姿で埋められたそうなので、往時のその姿を思い浮かべるのも一興ですよね。眼と腹を満たしてくれる赤穂岬も当地の観光には外せませんよね。お待ちしています。

≪まとめに≫


義士の縁としてはまだまだ他に「息継ぎの井戸」「大石名残の松」等々本当にたくさんありますよ。近年の観光向けには「赤穂市立歴史博物館」「兵庫県立赤穂海浜公園」「赤穂市立海洋科学館・塩の国」「田淵記念館」等がお客さんをお待ちしています。特に海洋科学館にはかつての塩田を復元していて、製塩の体験ができる施設となっています。塩に興味がある方はぜひご利用してください。


坂越の周辺はカキの養殖が盛んでシーズンには直売所が営業し、また名物のカキを堪能させてくれる施設もありますから、グルメにももってこいですよね。赤穂土産として、塩を利用した塩味饅頭を忘れてはいけませんね。よろしくお願いしましたよ!

最後に。赤穂は歴史の街です。それに加えて近年は大学の誘致も進み、若者の数も増えて来ました。これからが楽しみです。
いかがでしたか。このように魅力に溢れた赤穂の地。鉄道や車を利用すれば京阪神からもすぐに往来できるのです。訪れる人を笑顔にしてくれる。それがこの赤穂なのです!