シリーズ:沖縄本土復帰50年【『オキナワ』 もう一つの戦後を語る 中沢啓治】その2・承
<あの頃の少年にとっての社会情勢>
本作は現在でも絶大な人気を誇る週刊少年漫画雑誌に連載されました。しかし該当誌は少年誌としては後発であり、「週刊」と名乗ったものの当初は月2回の刊行に過ぎませんでした。おまけに約10年前に発刊した先行誌に人気が集中していて、当時の人気作家が執筆することはあっても単発作品がほとんでで、核となる作品連載にまではなかなかつながりませんでした。そこで部数競争で苦戦していた当時の編集部は、無名だけれども有力な新人の発掘に力を入れて若い才能に期待していました。
この思惑は成功して、現在でも著名な漫画家が数多く世に出るきっかけとなったのは有名ですよね。こういう理由からも中沢氏の登場となったのでした。
作中の冒頭部でも、主人公が弟から本誌を手渡される場面が登場します。これには二つ大きな理由が含まれていました。一つは本土から遠く離れる沖縄でも(必ずしも人気誌ではなかったかもしれない)少年誌が入手できたこと。さらにその後にこの兄弟の会話から「普通に日本語教育(漢字・かなを使用しての)が行われていた」ことが窺われた点でした。今日のようにネットで容易に情報収集ができた時代はありません。確かに本土での沖縄に関する認識は決して高くはなく、しかも介入戦争の一方の当事者が現地を統治する体制下でしたので、体制側に不都合につながるような事柄について積極的に話題とするのは戦争反対派に属する人がほとんだったように思われます。
学校でも特には教わる機会もなかったようなので、当然沖縄の同年代の少年少女の実情を知らなかった、ということですよね。
こういう導入がなされたのも沖縄にとっては準戦時、本土では平時という温度差に対する配慮でもあったようです。本土では基地の周辺以外では軍事力の存在を意識することは少ないでしょう。しかし、沖縄は違いました。広くはない沖縄の中にフェンスで厳重に囲まれた米軍基地は嫌でも目に入るのです、それもそこここに。戦場とは遠く離れてはいるものの当時は北爆の最盛期でもあり、武器類を満載した各種の軍用機が昼夜を問わずに轟音を響かせながら行き来する光景が日常でしたから。港湾にも軍事目的の艦船が常に停泊していました。フェンス越しに見える基地の中には車両や大量の軍事物資も。
さらに軍服・平服を問わずに数多くの米兵が基地は言うに及ばず、街を往来している姿を見せるのが日常でした。統治する米軍にとっては戦時の只中、その管理を受ける沖縄の住民たちにとっては準戦時ということです。彼らには選択の余地はありませんでした。
<ベトナムでの現実>
日本よりは遥かに豊かな(はずの)アメリカにも当然貧富の差はありました。ベトナム戦争が長引いたのには実は様々な理由が複雑に絡んでの結果なのですが、景気対策という側面も盛られていたのです。国土が広いだけに教育水準も一律ではなくて、恵まれていない階層の若者がアジアの戦場へ多く送られていた、という実情があったのです。核を例外として、当時の最新の兵器が惜しげもなく次々にベトナムで実用テストを兼ねて使用されたのは有名です。
片やベトナムは共産国側からの援助はあったものの物量的には常に劣勢を強いられ、力の差は歴然としていました。それでも米軍はベトナムで最終的な勝利を得ることはできず、旧宗主国であったフランスに続いての支配に失敗し、アジアでの重要な地歩を喪うことになりました。軍事的には米軍の全面的な敗北ではありませんでしたが、結果的には撤退に追いやられたので政治的な敗北であったのは間違いではありません。
戦争の流れがそうでしたから、補給地としての役割も担わされた沖縄での、米兵たちの士気は著しく衰えていました。彼らは家庭や社会で第二次世界大戦時の父親の世代の手柄話を聞かされて育った世代です。高校卒業後、すぐに入隊して最前線へ送られる際にも、戦争の惨禍の現実を真剣に考えていたのでしょうか。基本的に楽観主義を国是とする国の若者たちにとっての戦争はスポーツもしくはゲームのように捉えていた者も少なくなかったようです。しかし現実は違いました。大国の唱える大義名分は侵攻を受ける側には通用しなかったのです。頑強な抵抗を受けて米側の損害は日に日に増えて行く一方でした。
米軍の物量を背景にした戦法は正規軍相手では強力でしたが、ベトナム側は民兵を含めて正面からの攻撃は避けてゲリラ戦術に切り替え、前線と後方を遮断するように米軍を苦しめるようになったのです。このような「見えない敵」を相手にするのは正規軍には不向きでした。最新の武器を手にしてステーキを食らい、コーラを片手に戦場へ臨んだ米兵たちも、祖国の統一を願うベトナム兵の不屈の闘志には勝てませんでした。
<沖縄の実態>
前線がこういうありさまでしたので、休暇を与えられ後方の沖縄で心身を癒す米兵たちにとって、沖縄の住民たちはどう見えたでしょう?。また訓練中に先輩の兵士たちの実体験を教え込まれて、これからいよいよ前線へ送られる新兵たちも。この戦争の初期の頃の「どうせすぐに終わるに決まってるさ」という楽観的な風潮は既に過去のものになっていました。二度の世界大戦に勝ち抜き「世界の警官」を自認していた世界最強の軍隊も、比較にならない格下の相手に苦戦を強いられていましたから。準戦時とはいえここ沖縄では矛を交えることはないのですが、その分だけ平和に暮らしている沖縄の人たちと戦場では常に死と隣り合わせである自分たちとのギャップにやり場の無い怒りを抱いたかもしれません。
確かに米兵個人個人も戦争の被害者ではありました。多くの新兵は入隊したばかりで世界情勢についての十分な知識も持ちえずにいきなり全くの異世界に放り込まれて生死を賭す日常を強いられたのですからね。
日常生活を営んでいる人々と明日の生命の保障がなされていない自分たちとの差を実感して、羨ましさと憎悪が生じてしまった、という見方もできるのかもしれません。米本土では「公民権法」が施行されたものの、長年の悪しき風習は簡単には改められず、こういう点も沖縄に影響を及ぼしていたのでしょうか。
しかしそうであったとしても、沖縄の住民たちに対して理不尽な仕打ちを強要する理由にはならないのです。けれども戦争は予想外に長引き、米兵の死傷者は増す一方でした。米兵たちはこの沖縄から戦場へ送られる恐怖が日に日に強くなり、自暴自棄になって民間人に対する暴力も日常茶飯事となって兵の脱走も続発しました。士気の弛緩は軍の外へも及び、さまざまな面で沖縄の治安は悪くなっていったのです。
事実、日本の敗戦以降この沖縄では属国に対するのと同様な仕打ちが常態化しており、多発する事故や事件を含めて沖縄の人たちの怒りは頂点に達していました。それでもそれが覆せなかったのは米軍の圧倒的な軍事力はもとより、生活権のほぼ全てを米軍に依存していたからだと言っても過言ではなかったでしょう。米軍関連以外では仕事も限られ、憎しみを抱きながらも他の選択肢を持てなかった歪な社会構造が原因でした。生きて行く方法が他には無い。この諦めにも似た空気が本土復帰前の沖縄で色濃く漂っていました。